野党「共に民主党」のイ・ジェミョン代表の「親日国防」や「旭日旗」、「安全保障自傷行為」などの相次ぐ攻勢で、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領と与党「国民の力」の指導部が大騒ぎになっています。イ代表がどうやら現政権勢力の非常に敏感な部分に触れたようです。
最近政界で沸騰している親日をめぐる議論は単純な政治攻防ではありません。その背景には大韓民国政府のアイデンティティと理念をめぐる大論争があります。今回の親日をめぐる議論の歴史的背景を踏まえ、この議論をいかに解決していくべきかについて知恵を集める必要があります。大きな枠組みからすると、親日をめぐる議論は「従北(北朝鮮追従)」をめぐる論議と切っても切れない双生児です。日帝強占期(日本の植民地時代)の既得権勢力だった親日派は、解放後、反共を旗印に掲げ、富と権力を維持しました。分断と戦争が親日派の既得権を保障してくれたのです。親日既得権勢力の前衛だった李承晩(イ・スンマン)、朴正煕(パク・チョンヒ)、全斗煥(チョン・ドゥファン)の独裁政権は、政権維持のために反独裁民主化運動に身を投じた人々にアカのレッテルを張って殺し、刑務所に閉じ込めました。罪のない在日コリアンの留学生や漁師などを捕まえて拷問し、スパイに仕立て上げました。金大中(キム・デジュン)大統領のような中道保守性向の野党政治家にも「アカ」、「親北朝鮮」、「容共」、「北朝鮮追従」のレッテルを張り、弾圧しました。
政派を超えた課題だった「南北関係」
長年続いた既得権勢力による北朝鮮追従攻勢で、親日をめぐる議論は表舞台に出る機会があまりありませんでした。しかし、独裁政権が追い出され、民主化が進むにつれ、既得権勢力の親日行為に対する調査と公開が始まりました。
朴正煕大統領が血書を書いて満州国陸軍軍官学校に入り、創氏改名で高木正雄と名乗っていた事実が暴露されました。日帝強占期における「朝鮮日報」の親日報道が再び注目を浴びました。民族問題研究所が8年の製作期間を経て『親日人名辞典』を発行したのは2009年でした。解放からの長い歳月を考えると、大韓民国で親日が本格的に議論になったのはかなり最近のことです。
2019年の日本の輸出規制事態を機にネット上で「土着倭寇」という言葉を使う人が増えました。いわゆる保守勢力を親日派として攻撃する際、最も刺激的な表現を動員したのです。保守勢力は土着倭寇という言葉に激昂しました。イ・ジェミョン代表が最近、韓米日共同軍事訓練をめぐり「親日国防」という刺激的な言語を用いて攻勢に出たことに対し、保守勢力全体が激しく反発している背景にはこうした歴史があるのです。
保守勢力が北朝鮮を悪意的に、日本を好意的にとらえるのは、朝鮮半島情勢を見る国際政治フレームと関連があります。朝鮮半島を「韓米日」と「朝中」が衝突する角逐の場とみなしているわけです。海洋勢力と大陸勢力の体制争いで勝利を収めるために、私たちは米国や日本と手を組むべきだという論理です。冷戦時代にはそのような主張に妥当性がありました。
しかし、国際情勢は保守勢力の望む通りには進みませんでした。1970年代、米中和解の流れに乗って南北対話が始まりました。1972年、南北当局は7・4南北共同声明を発表しました。朴正煕大統領時代の出来事です。分断後初めて南北が合意した文書でした。これにより、南北は自主、平和、民族大団結という平和統一の3大原則を内外に宣言しました。
7・4南北共同声明は、盧泰愚(ノ・テウ)大統領時代の1991年の南北基本合意書、金大中大統領の太陽政策と2000年の南北首脳会談へとつながりました。盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領と文在寅(ムン・ジェイン)大統領の北朝鮮政策と南北首脳会談もその延長線上にあるのは言うまでもありません。
金大中・盧武鉉・文在寅大統領は南北関係の改善と朝米関係の正常化で北朝鮮の核問題を解決し、朝鮮半島の平和を実現するという「ビッグピクチャー」を持っていました。何回か進展がありましたが、米国の選挙による情勢の変化と米国国内の強硬派の妨害、北朝鮮の消極的な態度など、様々な要因が重なり、目に見える成果にはつながりませんでした。皆さんは2005年の米国政府のバンコ・デルタ・アジア(BDA)における北朝鮮資金の凍結、2019年のジョン・ボルトン大統領補佐官(国家安安全保障担当)の妨害で決裂した「ハノイ・ノーディール」を覚えているでしょう。金泳三(キム・ヨンサム)大統領と李明博(イ・ミョンバク)大統領時代も南北関係改善の努力がありました。しかし、不運なことに、金日成(キム・イルソン)主席の突然の死去や金剛山(クムガンサン)観光客射殺事件などで、南北関係はむしろ悪化しました。朴槿恵(パク・クネ)大統領は野党議員時代の2002年に北朝鮮を訪れ、金正日(キム・ジョンイル)委員長と会談したことがあります。離散家族常設面会所の設置、金剛山ダムの共同調査、南北鉄道の連結、南北サッカー大会などに合意しました。朴元大統領は自叙伝にこのように書きました。
「北朝鮮を訪問して以来、私は南北問題解決の糸口をつかんだ。それはまさに真心に基づいて相互信頼を築いていけば、発展的な交渉と約束が期待できるという点だ」
こうした認識は後日、「朝鮮半島信頼プロセス」という大統領選挙公約として現れました。しかし、大統領在任時にこれといった成果を出すことはできませんでした。このように大統領個人の理念や所属政派に関係なく、歴代大統領は南北関係の改善と北朝鮮の核問題の解決に向けてそれなりに努力してきました。
(2に続く)