本文に移動

ハン・ホング 司法府-悔恨と汚辱の歴史34.キム・グンテ顧問事件と司法府(3)

原文入力:2010-01-03午後07:08:39(4323字)
報道統制・傍聴制限…法廷内外 公権力 障壁
妊産婦まで失神させた‘殺伐とした傍聴妨害’
赤裸々な拷問陳述に法廷は涙の海
‘休み中に宣告完結’のため超高速 1審 進行





←キム・グンテ前民青連議長(左側)が1988年金泉刑務所を出て夫人イン・ジェクン氏とともに "良心犯を全員釈放せよ" と叫んでいる。 <ハンギョレ>資料写真



脚本に沿った傍聴制限

1985年12月19日午前10時ソウル刑事地裁118号法廷ではついにキム・グンテ前民青連議長の1次公判がソウル刑事地裁合議11部(裁判長 ソ・ソン,陪席キム・ヒグン,ヨ・サンフン)審理で開かれた。裁判は初めから乱闘場だった。裁判所は法廷が狭いという理由で傍聴券を発行し、家族と民主人士らの裁判傍聴を事実上妨害した。傍聴券を家族に1枚,一般傍聴客に20枚内外に限定したのは安全企画部の公判対策に忠実に従ったものだった。その上、傍聴券を受け取り法廷に入ってきた人の半分は安全企画部や治安本部から出てきた機関員らだった。安全企画部にはこれらが上げた公判状況報告が残っている。

この報告書の中で‘関連動向’項目を見ると、"08:00 騒乱策動予想者 文益換(民民連議長),ケ・フンジェ(民民連副議長),キム・ジョンナム(民民連会員),キム・ヒョンスク(民青連会員),イム・チェヨン(明洞聖堂青年会員)等 6人 法廷周辺遮断"   "08:00 公判廷内外郭に警察兵力3個中隊(12/450)配置,検問検索" 等と記されており、前記の段階別処理計画どおり‘法廷騒乱’を防止するため警察兵力が配置され、‘騒乱策動予想者’の傍聴を制限するなどの措置がとられたことを示している。公判は裁判所の人定尋問に続き、弁護人らが傍聴制限に抗議し何度も中断された。傍聴席では誰かが "キム・グンテ氏夫人も傍聴制限でこの席に入ってこれずにいる" と強く抗議した。公安検事キム・ウォンチが5分程、控訴事実要旨を朗読する間、傍聴券を得られず法廷に入れない家族と知り合い,民青連会員30人余りは法廷入口で手でドアを叩き "キム・グンテ 裁判受けるな!" と叫びもした。弁護人が再度強力に抗議し、夫人イン・ジェクンなど7~8人が出入り口を開きようやく入ることができた。

慟哭の法廷

裁判手続きを巡り検事と弁護人の攻防が起こると、ソ・ソン裁判長は意外にも被告人に "裁判に入る前に裁判進行に対し被告人の意見を陳述" せよと話した。キム・グンテは裁判手続きよりさらに急迫し現存する危険があるとし "本人は去る9月1ヶ月の間、南営洞にある治安本部対共分室で過酷な拷問にあいました" と口を開いた。検事席のキム・ウォンチがむっくり起きあわてて制止したが、キム・グンテは話を続けた。キム・グンテは眩暈をこらえるように欄干をつかみ吐息をついて、弁護人面会制限とメモ奪取事件に対し丁寧に話した。法廷は粛然とした。彼が南営洞で加えられた拷問内容に対し本格的に述べようとすると検事は再び制止し、傍聴席では "じっとしていろ!" "泥棒野郎" という叫びが起こった。キム・グンテが電気拷問にあい、死の影が間近に迫ったと話す時、傍聴席では泣き出し始めた。彼が震える声で拷問にあい "ひざまずき生きるより死を望む" という歌を心で歌ったと話す時は刑務官たちでさえ目がしらを赤らめ傍聴席は涙の海になった。キム・グンテが拷問者たちが嫁に行った娘を心配する声を聞き、人間的な絶望に身震いしたと言った時、傍聴席の泣き声は慟哭に変わった。

キム・グンテの冒頭陳述が終わった後、検事は事実審理を進行しようと言った。裁判長も控訴内容の最初の項目だけでも今日進行しようと言ったが、キム・グンテは弁護士と控訴内容に対し一度も話したことがないほど防御権が侵害されたと主張した。弁護人も拷問によって起訴が提起されたこの事件の起訴事実は当然無効とし、事実審理の延期を主張した。裁判所はこれを受け入れ1986年1月9日に裁判期日を定め1次公判を終えた。

公判対策の強化

1次公判でキム・グンテが行った拷問暴露が大きな反響を起こすや、安全企画部と検察は公判対策を強化した。1986年1月6日付の<民青連キム・グンテ人権問題関連関係機関対策会議資料>という報告書は‘概況’項目で“去る12.19 1審1回公判時の法廷陳述で警察調査期間中 拷問および苛酷な行為を受けたと主張,これを契機に在野,宗教,拘束者家族など問題圏が連合,拷問を口実とした対政府闘争を展開する一方、公判廷で意図的に騒乱など是非,公判妨害はもちろん公判廷を政治宣伝場化するために画策し、海外問題僑胞,国外人権団体および朝野(官民)などにわい曲伝播し、人権問題をめぐり国益を阻害している”と叙述した。報告書はこれにともなう予想問題点として“拘束者家族,問題圏と連携。キム・グンテ救命運動展開”と“拷問捜査是非,意図的公判妨害強行”を挙げた。安全企画部はこれに対し“在野問題圏のキム・グンテなど拷問是非関連不純行事徹底瓦解”“拘束者家族管理徹底,救命運動など阻止”“問題圏対政府闘争強力対処で初動段階瓦解”“徹底した公判対策樹立対処”“海外問題人物の国益阻害など不純活動徹底封鎖”“国内人権問題関連海外広報徹底”という対策をたてた。

安全企画部報告書によれば2次公判がある1月9日には、米国教会協議会と国際人権委弁護士協会の支援を受けるピカトゥ弁護士,1月23日には国際人権弁護士協会総務エミ・ヨンが3次公判を傍聴するために来韓する予定になっていた。キム・グンテは<南営洞>で、自身の公判を傍聴しに来た米国人弁護士中の1人は自称米国大使館職員というがっしりした男たちによって事実上連行されて行ったと回顧した。“海外問題人物の国益阻害など不純活動徹底封鎖”という方針の確実な執行だった。彼が連行されて行ったところは公安研究所長キム・ギョンハン検事(イ・ミョンバク政府の最初の法務部長官)の前だったという。キム・ギョンハンはキム・グンテが“南営洞にいる時、弁護人面会や助力を要請しなかった。拷問は受けなかった。万一、拷問を受けた事実が判事によって認められれば釈放されるだろう。必要だと要請すればもちろん自分の外来医師の診療と治療を受けることができる。しかし痛くはない”と話したと言う。キム・グンテは“恥知らず名この厚かましい嘘の中に、それでも必ず一つは事実と合っている話がある”とし、自身が“弁護人の面会や助力を要請”しなかったのは事実だと話した。彼はもし南営洞で拷問にあい弁護士を呼んでくれと言おうものなら“未だ分からないこの情けない奴と虐待され、もう一度電気,水拷問”を受けたろうと回顧した。

傍聴客連行とイン・ジェクンの卒倒

安全企画部がさらに徹底した公判対策をたてた2次公判では、より大きな騒動が起きた。裁判所は35枚の傍聴券を発行したが、傍聴券を所持した人々も20人ほどの市警機動隊刑事らの二重三重の警備下で身体検査にあい法廷に入ることができた。人々は“何が恐ろしくて傍聴を邪魔するのか”“傍聴券があるのになぜ入れないようにするのか”“お前たちは裁判所整理でもないのにいったい誰か”とし強く抗議した。抗議が強まるや、刑事らは力で傍聴客らを押し出し始めた。狭い廊下は修羅場と化し、キム・グンテの夫人イン・ジェクンは気を失い倒れた。家族,知り合いたちがイン・ジェクンを囲み保護している間にも、刑事らは出口側に傍聴客を押し出した。そのために人が下敷きになり激闘が起き“アッ”“助けて”などの悲鳴が起こった。

突然刑事らが道を開け傍聴券所持者だけを一人ずつ押しいれたが、連行待機組は順に彼らを鶏小屋車に乗せた。30分余りの小競り合いの末に文益換,クァク・テヨン,イン・ジェクン,イ・ヘチャンなど16人が連行された。連行途中、事件関連手配者イ・ボムヨンの夫人で妊娠8ヶ月だったキム・ソルヒが失神し近隣病院に搬送された。連行者たちはその日遅くに裁判が終わって釈放された。
超高速裁判

裁判は毎週木曜日にきちんと進行され8次公判からは週2回ずつ開かれた。安全企画部の<関係機関対策会議資料>に現れた通り“2月中に1審宣告完結”のためには仕方なかった。公判には多くの記者が参加し熱心にメモしたが、安全企画部の公判対策には“言論縮小報道で刺激排除”という項目が入っていた。この文を準備して探してみた当時の新聞を見れば、本当に郵便切手ほどの大きさで、公判が開かれたという事実を報道しただけだった。拷問事実が社会的争点となるや、政府は御用報道機関の<韓国放送>と<連合通信>を動員し、事実をわい曲しねつ造することによって事前に官製世論裁判を強行しようと試みた。こうした容共操作事件に共通する点は、放送ニュースや新聞記事に主要疑惑事実として出ているものなどの中には控訴状を目を皿のようにして探してみても出ていないものがしばしば出ているということだ。裁判長のソ・ソン部長判事さえ公判廷でこの事件が新聞,放送に報道された内容とは違うと言う場面もあった。

2月27日に開かれた11次公判でキム・グンテは最終陳述をした。彼は“もう自分は服役します”という言葉で自身に有罪判決が下されるつもりだという点を当然視した。彼の懲役は個人的には“鉄格子の向こう側の空の星で尹東柱詩人の涙に出会い”“拷問による心の傷を癒し回復する過程”であると同時に、社会的には光州の慟哭を聞きながら民主化を夢見る過程だった。服役しながらキム・グンテは自分は“本事件を時代の不幸の一つと考えます”とし“この公判に参加し苦哀と困難を抱いてきた裁判所,弁護人,検察官の労苦を慰めたいと思います。しかし、これは本人の不幸であるだけでなく、この時代の私たちの社会の悲劇として、私たちが同じ共感を持って慟哭して当然だと思います」と話した。不幸にも‘私たちの’裁判所と検察は25年が過ぎた今でも、いかなる‘共感’も持ってみたことがない。慟哭は続いている。

ハン・ホング聖公会大教授・韓国史

※毎週火曜日に掲載された‘ハン・ホング教授が書く司法府-悔恨と汚辱の歴史’が今週から毎週月曜日に掲載されます。

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/214/396789.html 訳J.S