原文入力:2009-12-20午後09:36:36
[2009の人々]①龍山惨事で父親を失ったイ・サンヒョン君
"葬儀室が家になってしまった1年 昼間は学校,夜は集会…
戦いながら踏ん張った母親もいるから辛くても大学で夢をふくらませなければ"
イ・ギョンミ記者
←‘龍山惨事’で亡くなった故イ・ソンス氏の夫人クォン・ミョンスク(写真後ろ)氏が去る18日午後、京畿 龍仁市の水枝三星病院に入院中の次男イ・サンヒョン君の車椅子を押し病室の廊下を歩いている。キム・ミョンジン記者littleprince@hani.co.kr
息子がある日ママに尋ねた。「ママ、僕、大学へ行かなくてはいけない?大学行けばママ一人で大変じゃないの?」今年の初め、高等学校を卒業した長男が進学の夢をあきらめ軍隊に行ったが、次男までがあきらめると言い出した。ママの頬を大粒の涙が伝った。
母親 クォン・ミョンスク(47)氏と親戚たちは6ヶ月間にわたり次男を説得した。イ・サンヒョン(18)君は結局、意志を曲げ今年、京畿城南市のS大色彩デザイン科に随時選考で合格した。母親は親戚やあちこちから受け取った寄付を集めて最初の学期登録料450万ウォンを辛うじて用意した。
サンヒョン君は意外にも病院の世話になっている。去る18日昼、京畿龍仁,水枝三星病院で会ったサンヒョン君はギブスをして車椅子に座っていた。その前日にファーストフード店でアルバイトをして階段から転落し足首の骨にひびが入ったのことだった。
しばらく大学生活に対する期待感で胸を膨らませている同じ年頃の人とは違い、サンヒョン君はとても疲れているように見えた。年が変わり少し過ぎれば、そのことから1年になる。去る1月20日ソウル,龍山区,漢江路2街の南一堂ビル屋上の望楼に上がった父親(イ・ソンス氏)が‘一日朝’に亡くなった後、全てが変わった。
サンヒョン君はその日、龍仁の家の近所のネットカフェでインターネットをしていて父親の消息を聞いた。すぐにソウル,龍山区,漢南洞の順天郷大病院に走って行った時、そこは阿鼻叫喚の地獄だった。見知らぬ人々がカメラとマイクを突きつけた。
‘龍山惨事’で家長を失った5家族は葬儀室で一緒に生活を始めた。病院から水原B高等学校まで登下校をして、夕方には毎日集会に出て行き鎮圧警察らと戦った。兄は警察の盾に当たって額が裂けた。手に持った父親の遺影が地面に投げ飛ばされたこともあった。
"病院の霊安室は広くてきれいだったが本当に嫌でした。5家族が大部屋に一緒に暮らしていたので私生活もなくて…。テレビをつけてぼうぜんと時間を送ることが全てでした。"
遺族たちが去る9月、病院生活を終えて惨事現場に居を移しサンヒョン君は水原にある祖母の家に移った。霊安室で一緒に過ごした他の遺族の兄・弟(妹)たちとも別れた。
惨事で5人の家長が亡くなった5家族には計11人の息子や孫がいた。龍山4区域撤去対策委員長だったイ・サンニム氏の子息イ・チュンヨン(36)氏はソウル拘置所に収監されたまま控訴審裁判を受けており、イ・サンニム氏の孫は来年には高校生だ。調理師だったヤン・フェソン氏の息子たちはまた仕事をやめてユン・ヨンホン氏の長男は大学2学年になる。ハン・デソン氏の長男は来年春に除隊を控えている。時折、電話で安否を聞くが別に会いはしないと言った。
両親は元々龍仁で家具工場を営んできた。そうするうちに5年前に事業が駄目になり、夏にはトウモロコシ、冬には焼き栗を売る露天商になった。龍仁生え抜きで道行く人の中で知らない人はいないほどだった。しかし、父親が恥ずかしいとは全く思わなかった。事故前、闊達な性格のサンヒョン君は高等学校でデザイン科に通った。幼い時から漫画を絵を描くのが好きで、大きくなると服にも関心が強かった。「大学で衣装デザインを学び、お金をたくさん儲けるのが夢」と言った。 龍仁/イ・ギョンミ記者kmlee@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/394439.html 訳J.S