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総連の宣伝信じ半世紀 生き別れ 東海を挟んで‘もう一つの離散 苦痛’

原文入力:2009-12-13午後11:03:36
在日同胞 北送事業 50年

キム・トヒョン記者

←北韓貨客船 万景峰92号が去る2003年8月、日本,新潟港に7ヶ月ぶりに入港するや埠頭の一方では総連関係者たち(上側)が北韓国旗を打ち振り歓迎し、他方では北に拉致された日本人家族らと右翼の人々(下)が入港反対デモを行っている。 新潟/ロイターニューシス

離れた者と残った者の胸の痛み

14日は日本在日同胞の北送事業が始まって50年になる日だ。1959年12月14日975人の在日同胞が‘帰国船’に乗ったのを皮切りに1984年まで9万3340人(日本人妻など日本人6000人余りを含む)が北韓に渡った。50年の歳月の間、北送された在日同胞家族らは海を間にはさみ言い表せない胸の痛みに耐えなければならなかった。離散家族の悲劇を在日同胞社会にまで延長した北送事業の実態を当事者たちの証言を中心に見てみる。

日本,東京に住む脱北在日同胞イ・サンボン(64・仮名・小さい写真の左側)氏は、毎月13万円の生活保護手当を受け取る難しい状況でも、毎月1万円ずつを貯める。家賃5万円と携帯電話料,電気・水道料などを除けば4万円程しか残らないが、生活費を節約しこれまでに20万円を貯めた。北韓に残してきた婦人と息子,娘のためだ。去る11日、東京都郊外の周辺都市で<ハンギョレ>記者と会ったイ氏は「いつか北韓にいる家族にこのお金を渡し生きる道を用意したい」と話した。

だが、イ氏は北に置いてきた家族らとの再会を約束できない。北韓に背を向けて出てきた脱北者の立場のためだ。しわだらけの顔に何か心配そうで用心深い語り口には、歴史のうずにまきこまれた北送事業離散家族の悲劇がそっくり埋められていた。
1960年4月。16才だったイ氏は両親,兄弟3人など家族5人と共に新潟港で万景峰号に乗った。‘帰国’当時、還暦を迎えた父親は大阪で日雇で生計をたてていた。子供たちの学費どころか一日三食食べることも難しい状況だった。在日同胞の家庭の中でも最も大変なグループに属していた。

去った者

日本に残った兄の送金のおかげで90年代の食糧危機に耐え
思想の自由剥奪に一人で脱出
“北に置いてきた家族を思うと…”

残った者

家族11人が一度に‘帰国船’
貧しい暮らしに送金 圧迫
両親の葬式にも出席できず
“申し訳ない気持ちが恨として残る

←左から在日同胞イ・サンボン(64・仮名),チョン・ムンジャ(69)氏.

“総連(在日朝鮮人総連合会)幹部たちがきて、祖国に帰れば大学も無料で、職業選択の自由もあるとして帰国を勧めた。総連は状況が一番厳しい同胞家庭から訪問した。”

イ氏は帰国して2ヶ月が経った頃、大阪に一人で残った兄に手紙を送った。手紙には‘祖国で幸せに暮らしている’と書いたが、切手の裏には‘総連の宣伝は嘘だ。帰国するな’と北韓の実状を伝えた。兄が帰国船に乗る前に事実を知らせるためだ。結局、手紙を受けとり帰国をあきらめた兄は北にいる家族たちの支えになった。

父,母が亡くなった後、北で鉱夫,農作業,機械設計の仕事をし家族を扶養したイ氏は建設の仕事をしていた兄の送金のおかげで餓死者が続出した1990年代にも生き残った。

“送金が許された1970年以後、私は兄のおかげで生き延びた。兄が土木会社の社長になった後、毎月100万円ずつを送ってくれた。すべて合わせれば日本のお金で9千万円にはなるだろう。30%ほどは当局に取られたが、その金で中古自動車の販売をして状態が良くなった。”

イ氏は北韓で生活し最も骨を折ったことは生きることではなく、思想の自由がないことだったと言った。「失言をして当局に四度も連行された。特に2001~2005年に先に脱北した三人の弟(妹)の家族たちを助けたのではないかと厳しい調査を受けた。彼らは私の心の中に何があるのか全てをさらけ出せと要求した。私が二重三重の顔を持つことができなければ生き残ることができなかっただろう。」

2006年8月、結局イ氏は脱北を敢行した。日本を離れ46年ぶりだった。中国に脱北したイ氏は瀋陽の日本領事館を経て2007年2月に日本に再び戻った。イ氏の直接的な脱北動機は思想的なものではなかった。在日同胞の上の世代がそうであるように、それはやはり儒教的家族意識が強かった。

“ご両親の墓地が派手だと碑石を壊し、盛土を20センチ以下にすると言って削った姿を見て、これ以上は我慢できないと思った。子供たちと共に脱出し見つかれば抹殺されるので、死んでも私一人で死のうという考えだった」

北送の苦難は去った者たちだけのものではなかった。1960年9月。東京に住むチョン・ムンジャ(69・右側)氏の両親と兄弟など家族11人が一度に帰国船に乗った。隣の家に住んでいたいとこ家族6人も共に北へ向かった。

広島県で建設業をしていた長兄、韓国に嫁入りした姉、そしてムンジャ氏など3人兄妹だけが残った。ムンジャ氏は日本の映画会社の仕事のために帰国できなかった。総連幹部だった母の影響で17才から熱情的な総連活動家であった彼女は北韓をいつかは帰らなければならない祖国と信じていた。しかし帰国2年後からささいな生活物品を送ってくれという家族の絶え間ない手紙を見て、彼女の信頼は揺れ始めた。「私も商売をしながら辛うじて暮らしていた。北韓政府にお願いすれば良いでしょうにと思い理解できなかった。」

1970年には父,1985年には母の葬式にも参加できなかった。彼女は1980年に故郷訪問の一環で北の家族と20年ぶりに対面した長兄方に送ってきた母の録音テープの声をとても聞けなかったと言った。手紙も出さず総連とも絶交したムンジャ氏に対する母のさびしがる心境に申し訳なく感じたためだ。

長兄が担った荷物はさらに重く大きかった。広島県のある地域の総連商工会幹部を引き受け死ぬまで北の家族にお金と物品を送り続けた。「廃船を買い屑鉄にし売る仕事をしていた長兄は1980年に北韓を訪問した時、ミニバス一台分の物品を積んで行った。長兄は5年前に死ぬ時まで家も持たずに苦労した。”

去る10月、東京で年下のいとこに49年ぶりに再会したムンジャ氏は「手紙を読めば助けることのできない自身が苦しく、それでも読まないわけにはいかなかった」過ぎた歳月の恨を少しは解いたようだ。

“2週間一緒に過ごし北に行った我が家の男たちが、食べ物もまともに食べられずに年下のいとこを除き、皆が病気にかかり死んだという話を聞き、北の家族がどのように暮らしていたか理解することになりました。”

東京/キム・トヒョン特派員aip209@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/393120.html 訳J.S