額にはもう「生死決断」と書かれた鉢巻は巻かれていなかった。手には、サムスンを糾弾するために355日間握られていたマイクの代わりに、一輪の菊の花があった。菊の花は、50年前「労働基準法を順守せよ」と叫んで自らの身に火をつけたチョン・テイル烈士の墓前に置かれた。
ソウル地下鉄2号線江南(カンナム)駅のサムスン社屋前の鉄塔の上で高空籠城(高所での座り込み)を展開してきたサムスン被解雇労働者のキム・ヨンヒさん(62)は、地上に降り立った翌日の30日、京畿道南楊州市(ナミャンジュシ)の牡丹公園内にあるチョン・テイル烈士の墓所を訪れた。1年近く「空の監獄」に閉じ込められていたキムさんが高空籠城を終え、真っ先にここを訪れた理由は、単純なものではない。
キムさんは高所籠城について「死をめぐる自分自身との闘いだった」と振り返った。それほど孤独で苦しい闘いだった。「特にパニック障害を感じた時は耐え難かった。飛び降りれば苦しみが消えるだろうかとも思った」。極端な考えをするたびにキムさんの心を引き締めてくれたのがチョン・テイル烈士の評伝だった。「最も厳しい時が訪れる度にチョン・テイル烈士の本を読み、その中で自分を取り戻しました。チョン・テイル烈士が作業現場で苦悩する姿が大きな力になりました。だから鉄塔を降りたら、まずここを訪ねようと思いました」。チョン・テイル烈士の墓所の前でハンギョレの取材に応じたキムさんはこう語った。
チョン・テイル烈士だけではなかった。キムさんが長きにわたる闘争に耐えることができたのは、キムさんの闘争に手を差し伸べてくれた多くの連帯者たちのおかげだった。「この問題を解決する上で大きな支えになったのは仲間たちだった。言葉では言い表せないほど感謝している。内面の葛藤から飛び降り、労働者が敗れる姿を見せたくなくて(耐え抜いた)」と述べた。
25年間の復職闘争、そして355日にわたる高さ25メートルの鉄塔の上での高空籠城。その苦しい闘いの末、サムスンはキムさんに公式に謝罪し、補償を約束した。「私一人だけの闘いだったら百戦百敗だったはずです。多くの市民と労働者の連帯のおかげで勝つことができました」。
キムさんはサムスン航空で労組を作ろうとして、1995年に最終的に解雇された。その後、復職を叫んで25年にわたって粘り強い闘争を続けてきた。キムさんは、その長い時を共にしてくれた家族に対する申し訳なさを何度も語った。「25年間、父のことが一度も頭から離れなかった。父に対する罪悪感は大きかったし、夫としての役割、父親としての役割も果たしてこられなかったことが申し訳ない。妻と子どもたちに、残る人生は今までできなかったことを埋めながら生きていきたいと言った」と話した。キムさんは、サムスンで労組を作ろうとしたところ父親と対立し、キムさんの父親は1991年に「労組活動を放棄せよ」という趣旨の遺言状を残し、行方不明になった。
キムさんは先月28日にサムスンと最終合意したが、交渉過程も難航した。4月29日からサムスンとキムさん側の代理人の間で交渉が進められてきたが、協議に至りながらも決裂することが繰り返された。ついには「キム・ヨンヒ・サムスン被解雇労働者高空籠城共同対策委員会」のイム・ミリ代表が15日に記者会見を開き、「サムスンが一方的に合意を引き延ばしている」と述べた。そのたびにキムさんも「血の渇く思い」だったが、キムさんと連帯する人々も焦りを濃くしていった。高所籠城の最初から最後までキムさんのそばを守ってきた連帯者のパク・ミヒさん(61)は「交渉がまとまらず時間が経つたびに、完全に降りてこられるか心配で本当に気をもんだ」と話した。交渉代表を務めたイム代表も「交渉が遅れる度に胸がどきどきした。交渉が妥結し地上に降りてくる瞬間にも、何かが起きるのではないかと心配した」と語った。
キムさんの連帯者たちは、キムさんの闘争と勝利は単にキムさん一人だけの勝利ではないと指摘する。イム代表は「労働者にとって、前向きな姿勢で交渉に臨むきっかけになるだろう」と述べた。パクさんは「(企業との間で)不当な出来事が生じた時、今回のことがきちんとした交渉の行われる土台になればと思う」と語った。
キムさんも、今後厳しい労働環境で闘う労働者に連帯の手を差し伸べる考えだ。「地上に降りた時、胸が躍るほど嬉しかったのは(連帯してくれた)仲間たちのそばへ駆けよっていって手を取り合い、共に涙を流せるということだった。全国の籠城現場を巡って連帯闘争を行い、力になりたい」と語った。