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[インタビュー]「ハンギョレは時代が作り、国民の努力が成し遂げた結実」(前編)

登録:2020-05-18 12:58 修正:2020-05-19 14:17
ハンギョレ新聞 イム・ジェギョン初代編集人に聞く 
インタビュー:アン・ジェスン論説委員室長

ハンギョレは時代が作り 
独裁の暴圧の中で苦しんだ 
国民の努力が成しとげた結果物 
 
朝中東をみれば、長く続いていることが自慢にはならない 
本来の役割を果たすことが重要 
 
差別される人びとに希望を与え 
朝鮮半島の平和に貢献したハンギョレ 
自負心を持つに足る

ハンギョレ新聞のイム・ジェギョン初代編集人が先月29日、ソウル麻浦区孔徳洞のハンギョレ新聞社の屋上庭園で、創刊当時の状況などについて思いを述べている=イ・ジョングン記者//ハンギョレ新聞社

 ハンギョレが18日で第1万号の新聞を発行した。1988年5月15日に創刊されたため、ちょうど32年と3日だ。ハンギョレ創刊の主役であるイム・ジェギョン初代編集人兼副社長は「ハンギョレは時代が作り、軍事独裁政権の暴圧の中で共に苦しんだ韓国国民全体の努力が成しとげた結実だ」と振り返った。イム元編集人は、1980年に全斗煥(チョン・ドゥファン)新軍部によって韓国日報から強制解雇された後、民主言論運動に邁進し、1988年のハンギョレ創刊に参加した。

 イム元編集人は1991年8月10日、ハンギョレの第1千号の新聞1面コラム「発行1千号を迎えて」で、「ハンギョレがこの時代最高の公共財として残ることを願う」という望みを明らかにした。イム元編集人は「ハンギョレはさまざまな面で差別を受ける人びとや抑圧された人びとに希望を与え、朝鮮半島が紛争の種になることを防ぎ、平和を模索するのに貢献した」とし、「もちろんここに安住してはならないが、自負心を持つに足る」と述べた。

 イム元編集人とのインタビューは先月29日、ハンギョレ新聞社で行われた。

-ハンギョレが5月18日で第1万号を発行します。ハンギョレ創刊の主役の一人として、感想はいかがですか。

 「発行号数というのは人間でいえば寿命で生命体から見れば生存期間ですが、これは必ずしも長く続いているからといって価値があるとは思いません。したがって、発行号数だけで自慢できるものではないと思います。朝鮮日報と東亜日報をごらんなさい、100年を迎えたでしょう。中央日報も50年を越えました。しかし、これらのメディアが本来の役割を果たしているのかを考えると、発行号数が、すなわちその新聞の存続期間が長いということがそのまま新聞の価値を意味するわけではないということです。

 私は韓国のメディアとして三紙を選ぶなら、独立新聞、日帝強制占領期に呂運亨(ヨ・ウンヒョン)先生が作った朝鮮中央日報、4・19の直後に出た民族日報を挙げます。しかし、独立新聞は3年ももたず、朝鮮中央日報も3年続かなかった。民族日報はわずか4カ月、発行号数では92号、100号に至らなかったのです。ハンギョレはこの3紙よりずっと長く維持しており、ハンギョレの創刊に参加した者として誇らしい気持ちを隠し切れないですが、だからといって発行号数1万号に浮かれて興奮することではないと思います」

-発行号数1万号という数字ではなく、ハンギョレがこれまで韓国社会でメディアの役割をきちんと果たしてきたかが重要だということですね。

 「ハンギョレが、100人のうち100人全員に満足感を与えたとは思いません。しかし、多くの国民に何らかの期待を与え、希望を失わないようにしたとは思います。ここ数年間だけ見ても、もしハンギョレがなかったら『ろうそく革命』が可能だっただろうか、文在寅(ムン・ジェイン)政府が誕生しただろうか、4・15総選挙の結果がこのように出ただろうか、そんな風に考えます。また、政治的変化だけでなく、ハンギョレはいろいろな面で差別を受ける人びとや抑圧された人びとに希望を与え、朝鮮半島が紛争の種になることを防ぎ、平和を模索できるよう貢献しました。もちろんここに安住してはならないが、自負心を持つに足ると思います」

ハンギョレ新聞のイム・ジェギョン初代編集人が先月29日、ソウル麻浦区孔徳洞のハンギョレ新聞社で創刊当時の状況などについて思いを述べている=イ・ジョングン記者//ハンギョレ新聞社

-1988年のハンギョレ創刊が韓国社会で、また韓国の言論史で持つ意味は何でしたか。

 「狭く見れば、1970年代中盤の東亜日報と朝鮮日報の自由言論闘争、そして1980年の全斗煥軍事政権の記者の大量解雇と関係があります。しかし、長い目で見れば、李承晩(イ・スンマン)、朴正煕(パク・チョンヒ)、全斗煥につながる暴圧的勢力から解放されたいという全国民的な欲求が、ハンギョレという実を結んだのではないか、私はそう思います。ハンギョレは一つの時代が作ったものだと言いたいです。そのような意味で、ハンギョレを創刊した解雇記者たちも少し謙虚になる必要があると思います。私たちが全てを掲げて作ったという誇りを持つのはいいが、ハンギョレは時代が作り、軍事独裁政権の暴圧の中で共に苦しんだ韓国国民全体の努力が成し遂げたものだ、こう見るべきだということです」

-時代が作ったということですが、当時の時代精神を一言でまとめると?

 「政治的暴圧に抵抗するのは『天賦の権利』だ、最近よく使われる言葉で言えば『主権在民』の原理です。大統領が主人ではなく、この地の平凡な国民が主人だということです。ろうそく革命の核心でもあります。朴槿恵(パク・クネ)は大統領だがあなたが主人ではない、あなたの思い通りにしてはならない、あなたは退くべきだ、これが成功したのが主権在民の原理です。もちろん主権在民の原理は過去にもありましたが、韓国社会ではハンギョレが創刊された頃から芽生え始めたと思います」

-ハンギョレの創刊当時、国内外のメディアが関心を示したと聞いていますが。

 「そうです。外国の新聞・放送が、はたしてこのメディアがまともに維持できるのか疑問を呈しました。当時、ル・モンドのソウル駐在記者と数回会いましたが、非常に悲観的に見ていたんです。フランスのように市民意識の高い国でもル・モンドのような新聞が絶えず財政的危険にさらされているのに、はたして韓国で可能なのか?軍部、財閥、官僚、また朝中東(朝鮮日報・中央日報・東亜日報)のような勢力がハンギョレのような新聞を許すのかと、冷静に見ていたのです。ところが32年間維持され、1万号まで発行されたのだから、本当にすごいことです」

-当時、国内メディアの反応はどうでしたか。

 「1988年9月、韓国言論会館で第100号を記念して祝宴を開きました。名前は言いませんが、朝中東の発行人の一人が来ました。私と握手しながら言う挨拶が『そろそろ落ち着いてきましたか』と。そう言いながら私の肩を叩くんです。励まそうというのではなく、『やい、どれだけ続くか見ようじゃないか』という表情がありありと見えたのです。それで何も言いかえしませんでしたけどね」

-ハンギョレは世界の言論史で初めて権力と資本からの独立を掲げた「国民株新聞」です。そのぶん、創刊初期から新聞製作と新聞社の運営に困難が多かったのでは。

 「サムスンは最近は広告を出していますか?どうですか?」

-イ・ジェヨン副会長に対する批判的な報道を出しているので…

 「創刊から数年間はサムスンとは全く対話がなかった。企業はどのメディアとも敵対的関係を持とうとはしませんが、ハンギョレには敵対的な態度を見せたのです。広告を出さない程度ではなく、最初から会ってくれませんでした。私が面会を何度も申し込んだが、会ってくれない。『どうせあんた方は長続きしない。だからあんた方と敵対関係を結んでも構わない』といったところです。ところが彼らが見誤った。ハンギョレの未来を見誤っただけでなく、韓国国民を見くびっていたのです」

(続)

アン・ジェスン論説委員室長 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/media/945326.html韓国語原文入力:2020-05-18 05:01
訳C.M

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