「人間の生きる世の中を作ってくれ、と叫びながら死んでいった友、先輩、後輩、兄さんたちに、この父さんの言葉を伝えてくれ。みんな心配するなと。父さんも民主運動は自信があると言っているから心配するな、と」
1987年1月14日、ソウル南営洞治安本部対共分室509号で拷問を受けて死亡した故朴鍾哲(パク・ジョンチョル)烈士の父親の故朴正基(パク・ジョンギ)さんの自筆の日記の一部だ。朴さんは釜山大学で開かれた息子の1周忌追悼祭のために、1988年1月14日午前5時にこの文章を書き、自分の日記に書き移した。朴さんは息子が世を去った年の1987年の12月20日から2006年8月11日まで日記を書き続けた。
民主化運動記念事業会は、朴鍾哲烈士33周忌を翌日に控えた13日、家族から寄贈された朴さんの日記の原文の一部である「末っ子の第1周忌を期して送る文」を公開した。朴さんの日記の原文が大衆に公開されるのは今回が初めて。
文には、拷問致死事件で息子に先立たれた父親の悲しみが込められている。朴さんは文で「息子よ、末っ子よ、お前がこの世にやってくる時、何を残していくつもりで来たのだろうかと思うよ。国民学校(小学校)から高校卒業までの間にもらって取っておいた賞状や表彰状を、父さんがいたずらに数えてみたら64個だったよ」と振り返った。そして「どれもこれも無駄な話のようだ。いま父さんはあまりにも恨めしい。私の愛する息子よ、天池が崩れ落ちる瞬間が流れる時間、雨風に雷が鳴り響いて、父さんの頭に落ちるみたいだ」と語った。
朴烈士とともに民主化運動のために力を尽くして亡くなった人びとの魂を慰めてほしいという願いもあった。朴さんは「今も冷たい牢獄で同志たちが恐ろしいほどの勇気で闘争している。そして、人間の生きる世の中を作ってくれ、と叫んで死んでいった友、先輩、後輩、兄さんたちに、この父さんの言葉を伝えてくれ。みんな心配するなと。父さんも民主運動は自信があると言っているから、心配するなと。彼らの魂を一生懸命慰めてくれ。お前は友達づきあいがうまいじゃないか。先頭に立ってそんなことをするのがうまいじゃないか」と語った。朴さんはこの文のように、その後も長年、全国民族民主遺族協議会(遺家協)会長を務め、民主化運動に携わった。1991年の姜慶大(カン・ギョンデ)烈士の事件の時は、法廷騒乱罪で3カ月にわたり刑務所生活を送ってもいる。
朴さんは文の結びに「母さんや姉さんはソウルの兄さん・義姉さんの家におり、父さんは一人で感懐にふけって、眼鏡の奥の涙をしきりに拭いたけれど、もう紙が濡れてしまった。さよなら、元気でな。チョルよ」と息子に挨拶を送った。
民主化運動記念事業会は「2018年7月28日に朴さんが亡くなった後、ご家族が日記帳を事業会に寄贈した」とし、「手書きを一般文書に転換する音表記作業を通じて日記の内容を文書化したが、その中に朴さんが1周忌追悼祭で話された追悼の辞があったので公開する。日記帳は、遺家協や朴鍾哲記念事業会など民主化運動の活動内容が記されている貴重な史料だ」と説明した。