2枚の手袋を脱ぐと、水でしわしわになった指が現れた。3時間あまりの朝の作業の間、手や足、体全体が水にふやけた気分だ。乾いた口から不快な臭いがして手首はずきずき痛む。トレイに盛られた飯を口に運ぶ気にならない。しかし、午後にも900人分の皿洗いや掃除が待っている。食べておかないと、その圧倒的な量と圧縮された時間を耐え抜くことは難しいだろう。湿気に満ちた5坪(16平方メートル)の更衣室兼休憩室で、「姉さんたち」のやるように、山盛りの飯を口の中に無理やり押し込んだ。すえた残飯の臭いが消毒薬の臭いと入り混じってくらくらする。
給食調理員はお互いを「オンニ(姉さん)」と呼んでいる。姉妹のように呼吸を合わせなければ、「女性の土木作業」と言われる激しい給食労働に耐えられないからだろうと、記者は思った。保健所で発給を受けた保険証を持って去る12月13日、給食調理員代替要員としてソウルのA小学校の調理室を訪れたとき、ほとんどが40~50代の姉さんたちは26歳の「いちばんの年下」を迎え、驚愕した。「学校の調理室は他の仕事をいろいろやって、いちばん最後に来る所だよ」。チンギョン(46、以下全員仮名)姉さんが、ひときわ気の毒そうな表情を浮かべた。
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姉さんたちのスピードには追いつけなかった
姉さんたち5人の一日はひたすら飯を中心に回る。朝8時30分、調理室に出勤し、小学生900人分の昼食の支度をし、午後4時に退社する。そして家族の夕食の支度をしなければならない。その間に自分の食事は「飲み込む」のみ。姉さんたちは給食の仕事に比べれば、家の飯など「ままごと」だと言った。調理室はまさに「スピードの戦場」だ。7時間30分で5~6人が900人分の給食の支度をし、明日のための皿洗いや掃除まで終えるには、食事を抜いてもギリギリだ。「午前は戦争で、午後は死だ」。 チンギョン姉さんの表現だ。
装備を備えて作業服を着込み、その日朝9時に調理室に入った時、積んである大根、もやし、白菜、牛肉などの食材を見て、開いた口が塞がらなかった。市場でもあれほど食材が積んである光景は、記者には見覚えがなかった。何より姉さんたちのスピードには追いつけなかった。野菜の皮をむく「ピーラー」で大根の皮をむくのに、不慣れなもので一つやるのに5分もかかった。目の前でたった20秒で大根一本をむき終ったチンギョン姉さんは、舌打ちしながら大根はやめてそれより簡単なヒラタケ割きをしろと言った。ユッケジャンに入るヒラタケ一つを縦に細く割いて三等分するのだが、それすら900人分だから30分もかかった。銀色のステンレスのたらいにうず高く積みあがったキノコは、いくら割いても減らなかった。「もっとスピードを出さないと」 。きのこが恨めしく感じられる頃、チンギョン姉さんが近付いてきて急き立てた。900個以上のみかんを洗って流しの掃除をする時も、姉さんは近づいてきて記者を攻め立てた。「半分もできてないね」。
ちょっとした料理長たちとも比肩しうる熟練した料理員の姉さんたちだが、溜まっている仕事を前にして気が急くのは同じだった。この日、メニューのサーモンステーキとちりめんじゃこのアーモンド炒め、ユッケジャンを担当する調理員を分けたのだが、配膳時間が迫ってくると、人の仕事と自分の仕事を区別してはいられなかった。姉さんたちは大根の皮をむいていても人手が足りなければ白菜を切り、すぐにちりめんじゃことアーモンドを炒めた。ただ目の前にある仕事を片付けるだけだった。
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15分以内に飯をかき込む
飯を食べるのも姉さんたちにとってはスピードが勝負だ。姉さんたちの食事には特に決まった時間というものはない。昼12時30分に食事を終えた子どもたちが一人二人と食堂を出て行き始めると、姉さんは一人二人と食事を始める。長くて30分あまりの食事兼休息時間があるというが、その時間をすべて使う人はいない。その日にすべきことを率先してする「当番」の姉さんがわずか10~15分で食べ終えて立ち上がると、他の姉さんたちも自分たちだけが休むのは申し訳ないと、調理室に出ていっておずおずと仕事に取り掛かる。子どもたちの給食のおかずが足りないと配食担当者に呼び出されるので、食事の途中も安心して座っていられない。軍手の上にゴム手袋、ゴムエプロンに衛生帽、腕抜きとゴム長靴を脱ぎ、飯を食べてまた着用した後、トイレに行く時間まで考慮しなければならない。午前中は熱い火の前で働き、顔が真っ赤にほてった姉さんたちは、それでも少しの間だけでも重い装備を脱ぐことができ、すっきりした様子だった。
手狭な休憩室にお膳を広げて六人が膝と膝を重ねて座った。衛生帽を脱ぐと、汗で押しつぶされた姉さんたちの髪がそのまま無造作に現れた。食卓に上った食べ物は、子どもたちや教師が残した飯と汁、その他残飯だ。冷めた汁とネチャネチャのご飯、油が固まったサーモンステーキ、しけったちりめんじゃこのアーモンド炒め。午前中ずっとご飯のにおいを嗅いで辟易していたうえ、冷めきった料理に食欲がわかない。しかし飢えは食欲に比例しなかった。激しく体を使う仕事をしたからか、ご飯はどんどん喉に吸い込まれていく。毎日激しく体を使うのに慣れている姉さんたちは、本来の味を失った冷めた食べ物をやっつける、それぞれの「ノウハウ」があった。チンギョン姉さんはご飯にちりめんじゃこ炒めをどっさり入れて混ぜ始めた。キョンミ姉さんはユッケジャンにご飯を入れてズルズルと飲みほした。そうして姉さんたちは山盛りのご飯を10分ほどで片付けてしまった。
食事を済ませるのに忙しい中でも、姉さんたちは生活の話を二言三言交わした。概して困窮した境遇についてだった。「今月は一週間空くね」。チンギョン姉さんの愚痴に、飯を口に押し込む皆の表情が一瞬暗くなった。給食調理員たちは長期休みに入ると稼ぐことができない。「一週間をどこで埋めようか」。誰も答えなかった。「一週間だけ働いてくれ」という所などあるはずがない。
ある姉さんがソウン姉さんを見つめ、「ソウン姉さん、そこ、紹介してよ」と声をかけた。ソウン姉さんは長期休みにはウェディングホールの調理室で働く。ソウン姉さんは申し訳なさそうに笑いながら、「ウェディングホールの調理の仕事もキャリアを好むのよ」と答えた。すると、おしゃべりのチンギョン姉さんは話題を変え、造船所で「肉体労働」を始めた義兄の話を持ち出した。別の姉さんたちがそれを聞き「もう造船所の時代じゃないよ」と舌打ちした。「息子が整備職として就職したんだけど、母親の気持ちとしては事務職じゃないから悔しい」という姉さんもいた。姉さんたちの暮らしの話は聞くほどに心苦しく、いま飲み込んだ飯が喉のどこかに引っかかっているような気がした。
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注意できない「腰痛注意」「はさまり注意」「火傷注意」
午後の調理室は後かたづけの墓場だ。昼12時45分ごろ、配食を終えたわけでもないのに、調理室は使い終わったトレイや箸やスプーンなどでいっぱいだった。食洗機はあるが、焦げ付いたおかずのかすを短時間で取り除くために手洗いが欠かせない。お湯で食器をふやかした後、スポンジでこすって水ですすぐ。洗剤の臭いと残飯の臭いが入り混じって調理室に充満する。
出入り口の横にかけてある温湿度計は気温10度、湿度32%を示しているが、体感湿度は80%を超えているようだった。調理室に携帯電話は持ち込めない。防水でない携帯電話は水蒸気のせいで故障すると姉さんたちは警告した。たちまち額に汗がふつふつと湧き出て流れ落ち、全身がべとべとだ。体にはときどき油と水が飛んでくる。腰も手首も抜け落ちていくようだった。「皿洗いに埋もれて死んじゃいそう」。終わりの見えない後かたづけに、思わず独り言をつぶやいてしまった。
気力が底をつくと、常に労働災害、事故の脅威を感じた。調理室の壁には、「腰痛注意」、「滑りやすい注意」、「火傷注意」、「はさまり注意」、「労働災害予防」の案内板が貼ってある。問題は、それを避ける術がないということだ。腰痛を避けることは不可能だ。調理員は概して、立って一日中腰を曲げたまま働く。トレイを持ち上げ、体を屈めて材料の下ごしらえをすれば、午後は必然的に千切れるような腰の痛みが襲ってくる。「はさまり」事故も避けられない。トレイとトレイの間に、食器と流しの間に何度となく指がはさまった。
「滑る」ことも注意できない。後かたづけをする時、調理室の床は水と洗剤でびちゃびちゃだ。あちこちに食器や調理道具が散らかっている。最後のかたづけをする時は床にバケツで水をぶちまけて食べ物の残りを洗い流す。重いゴム長靴が撒かれた水の勢いに押され、ふらついたことが何度もある。姉さんたちは互いに肩をぶつけたり水をはじいて顔にかけたりして「ごめん」「すみません」と何度も言っていた。
掃除の時は「薬品」で床を拭いて水を撒くが、チンギョン姉さんは「絶対に顔につけてはいけない強い薬」と警告した。だが慌てて働いているため、顔や首、目や服の中に薬品が飛び散らざるを得ない。夢中で動いていると、そのように薬品がついてもすぐに気にしなくなる。
何よりも恐ろしいのは火傷だった。調理室のあちこちで、大型の釜で油と水が沸き立つ。後かたづけに使う熱いお湯はゴム手袋の中に入り込み、中の軍手まで濡らした。湯気の立つ釜の内側に体を屈めてふやかした食器を取り出す時は、沸騰したお湯がこぼれそうになった。実際に2014年3月、ソウルのある小学校で調理員として働いていたBさん(56)は、皿洗いをするためにたらいに注いであったお湯の上に倒れ、二カ月後に亡くなった。
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「給食調理室は病気になって去る所」
「ここに来て働いたら病気になる。給食調理室は病気になって去る場所だよ」。仕事を始める前、チンギョン姉さんは真剣な表情で私を止めた。他の姉さんたちはもっと断固としていた。「母親の気持ちとして私は反対だ。若い人が働く所じゃない。あんたのお母さんが知ったら怒る。今日だけやってみて二度と来ないのよ」。私に迫ってきた姉さんたちが、みかんをむいて私に食べさせてくれた。
姉さんたちが、自分が身を置いていながら私を止める理由が、姉さんたちと食卓を囲んではじめて、仕事を終えてはじめて分かった。「私は大変だけど大丈夫。でもあんたはすべきじゃない」。 それは多分姉さんたちが自分の家族に、子どもたちに用意している食卓に込めたその気持ちと同じだろう。そしてそれは、自分は冷めた飯を飲み込みながらも、家族の食事はオンドルの焚口近くで温める母親の気持ちと同じなのだろう。