本文に移動

"朴正熙, 日本に忠誠誓い…張勉, 募金運動行う"

原文入力:2009-11-08午後09:32:00
言論界 方應謨, 文化界 安益泰など論難人物 含む
民族問題研 "学問的証明 自信…子孫も過誤認定を"

ホン・ソクチェ記者

8日公開された<親日人名辞典>の‘熱いジャガイモ(深刻な問題)’はやはり朴正熙前大統領,張勉前国務総理,金性洙前副大統領など韓国現代史の有力人士の親日行跡問題だった。
この間これらの親日有無を巡り社会的論難が絶えなかったが、親日人名辞典の発刊がこういう論難に終止符を打てるか注目される。民族問題研究所(所長 イム・ホニョン)は選定基準の客観性と史料を通じた学問的証明に自信を示している。

朴前大統領の親日行跡(3頁分量)は最後まで論議の対象だった。彼の子息パク・ジマン(51)氏は最後まで‘掲載・配布禁止仮処分申請’等を裁判所に出し辞典の発刊を阻んだ。しかし民族問題研究所は‘満州国軍血書志願’を証明する1939年<満州新聞>記事を出し‘客観性論議’に正面から対応した。

‘是日也放聲大哭’という題名の社説で乙巳保護条約の不当性を告発した張志淵は他の対象者らの2~3倍に達する6頁分量で親日行跡が精密に公開された。<皇城新聞>主筆を務めた彼は日帝強制占領期間初期には抗日言論人として知られた。だが1910年中盤から日本を "東洋の先覚" と褒め称えた反面、"(朝鮮人は)団体性のない人種になってしまった" と非難する文と漢詩を相次ぎ載せた。

‘消極的日本協力者’という是非を産んだ張勉前総理の親日行跡も詳細に記録された。辞典はそれに対して "1938年2月‘朝鮮志願兵制度制定祝賀会’の天主教側発起人として参加し、… ‘国民精神総動員天主教京城教区連盟’を創設する際に幹事を引き受けた" と記録した。

現在、独立有功者(建国勲章大統領章)として国家報勲処に登録された<東亜日報>創業者である金性洙の親日前歴も詳細に記述された。彼は3・1運動に参加し東亜日報設立に主導的に参加するなど独立運動を行った。だが辞典は彼が1937年普成專門学校校長に就任した後、中-日戦争などを広報する時局講演に相次ぎ出たと明らかにした。また1943年8月5日付<毎日新報>に‘大義に死ぬ時,皇国臣民となることの責務は大きい’という題名で "義務のために命を捧げなさい" と日本軍入隊を促したことが明らかになった。

日帝強制占領期間当時、雑誌<朝光>の発行人と<朝鮮日報>社長などを務めた方應謨は軍人らの士気を培うための‘京城軍事後援連盟’の委員として活動し、‘戦時奉公’を目的とする‘臨戦対策協議会’にも参加したと記録された。また彼は<朝光>に載せた文で "大東亜戦争に必ず勝つために軍官当局を絶対的に信頼しなければならない" と強調した。

軍・警察に服務した親日行為者らも多かった。辞典は日本軍憲兵伍長出身で李承晩大統領時期に特務隊長(現在の機務司令官に相当)を務めた金昌龍に対して "朝鮮と中国の抗日組織を偵察する任務を引き受け1943年から2年間に50件を越える抗日組織を摘発した" と明らかにした。

文化・芸術界では詩人,徐廷柱などよく知られた人々の行跡が一つ一つ記録された。辞典は徐廷柱が "詩・小説・雑文・評論等を通じて日帝に協力した" と明らかにした。彼は1944年<毎日新報>に発表した‘松井伍長 頌歌’という題名の詩で韓国人として初めての‘神風’(戦闘機自殺特攻隊)戦死者を追慕し "声もなく散る美しい花のように/むしろ喜んで降りた所/ばらばらにくず折れる米国軍艦!" と詠じた。
愛国歌を作曲した安益泰は日王の即位式に使われる祝い曲‘越天楽’を作り、舞踊家の崔承喜は‘内鮮一体’を宣伝するための舞踊公演をしたことがわかった。

チョ・セヨル民族問題研究所事務総長は「軍・警察・密偵など植民統治暴圧機構の服務者らと知識・文化芸術家,出世型協力者らにより厳重で苛酷な責任を問うた」とし「子孫らは歴史と社会正義実現に参加しなければならないだろう」と話した。

ホン・ソクチェ記者forchis@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/386532.html 訳J.S