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[コラム]強制動員とは何だったのか

登録:2019-10-10 21:26 修正:2019-10-11 08:31
日帝強制動員被害者が、新日鉄住金(現、日本製鉄)を相手に出した損害賠償請求訴訟で13年8カ月ぶりに被害者の勝訴判決が下された昨年10月30日午後、最高裁(大法院)前で強制動員被害者イ・チュンシク氏(94)が感想を述べ涙を流している=キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

 「植民地朝鮮で徴用が実施された期間はきわめて短かった」

 最近、韓国と日本の一部で、強制動員は歴史歪曲と主張する人々がいる。最近話題になった『反日種族主義』という本にも、そうした内容が一部載っている。彼らが主要な根拠に上げる内容は、日本が日本本土と植民地朝鮮で法的な意味の「徴用」を実施した時期は異なっているという点だ。日本本土では徴用の根拠になった「国家総動員法」を根拠とした国民徴用令が1939年7月から実施されたが、植民地朝鮮では1944年9月から実施されたという点を上げる。朝鮮では、日本本土とは違い1939年から1944年9月までは「募集」と「官斡旋」という名前で朝鮮の労働者を動員し、募集と官斡旋は法的な意味の強制性はなかったと主張する。

 こうした主張を聞けば、あたかも朝鮮人の大部分は自発的に日本に行ったように見える。しかし、植民地朝鮮の現実は形式的法とは距離が遠かった。募集と銘打った場合にも、日本の企業が植民地朝鮮の役人たちを懐柔し、朝鮮人を脅迫したり拉致して連れていく場合が多かった。募集だけでは人員を満たせなくなり、1942年からは朝鮮総督府が直接介入して朝鮮人を動員する、いわゆる官斡旋が並行された。

 募集と官斡旋の実態を証言する史料は、現在もたくさん残っている。太平洋戦争中に長野県の松代大本営地下バンカー建設工事に動員された慶尚南道昌寧(チャンニョン)出身のキム・チャンギ氏が、1992年に証言した内容が『岩陰の語り-松代大本営工事の労働証言』という本に載っている。「2月頃だったか。面(日本の村にあたる行政組織)の職員が来て、何の説明もなく家から連れて行かれた。25歳の時だった。服を着替える暇もなかった…貨物列車に乗ったが、人々をいっぱいに乗せて外から錠が掛けられた」と証言した。2年ほど仕事をして解放になり帰ってきたという証言を残したが、これを土台に推定すれば、1943年末に動員されたと見られ、動員方式は募集と官斡旋のどちらかだったと見られる。形式的にどんな方式を適用したのかは分からないが、キム氏にとっての現実は、単に「連れて行かれたこと」だった。

 日本の市民団体「朝鮮人強制連行真相調査団」の資料には、全羅南道高興郡(コフングン)から長野県の御岳発電所工事現場に動員されたヤン・ビョンド氏の証言が載っている。「1943年7月中旬だった。日本人の巡査が来て、私に用事があるから来いと言った。ついて行くと、留置場に放り込まれた。トラックで麗水(ヨス)港に連れて行かれ、日本の下関に到着」と話した。この例も同じく法的な意味の徴用ではなかったが、実状は強制動員だったわけだ。

 日本に行けば稼げるという言葉にだまされて行った朝鮮人もいた。植民地朝鮮という矛盾が生んだ貧困から抜け出すために日本に行った朝鮮人もいただろう。しかし、そのような場合にも作業場に配置された後には、企業が公権力と組んで逃走を防ぐために監視して、賃金は貯蓄を名目に一部だけを支給するなど強制労働に苦しめられたケースが大半だった。

チョ・ギウォン東京特派員//ハンギョレ新聞社

 「日本人と朝鮮人の労働者は仲良くした」「差別はなかった」という主張が、日本でも時々出てくる。もちろん個別的に朝鮮人労働者の一部と日本人が仲良くした場合はあった。飢えた朝鮮人労働者に日本の農民がミカンを渡したという証言もある。日本の政府と企業が朝鮮人労働者に一定程度の外出を許容する場合もあった。戦争中でも人々の暮らしは続く。動員された人でも常に泣いてばかりいるわけではない。当時も人生は複雑で多様だった。しかし、だからと言って強制労働という本質を消すことはできないではないか。

チョ・ギウォン東京特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/912753.html韓国語原文入力:2019-10-10 19:25
訳J.S

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