仁川(インチョン)金昌洞(クムチャンドン)と松現洞(ソンヒョンドン)一帯を称するペダリ(船橋)村は、1883年仁川港開港以来、日本人により追われた朝鮮の人々が集まって暮らした地域だ。満潮の度に海水が流れ込み、船を数隻つないで村のあちこちに渡って行ったことから“ペダリ(船橋)”という名前が付いたという話もあり、船が着く橋があったために“ペダリ”と呼ばれたという話もある。開港場の済物浦(チェムルポ)一帯から追われた朝鮮の人々がここに集まって村を作り、学校ができ、マッコリ工場が建てられ、市場が形成された。
ペダリ村には、1892年に作られた韓国初の近代式私立学校の永化(ヨンファ)初等学校と仁川初の公立普通学校の昌栄(チャンヨン)初等学校、マッコリを作った仁川醸造場が残っている。それだけでなく朝鮮戦争後、暮らしが厳しかった時期に形成された古本屋街も一部その原形を維持していて、開港期から近現代まで歴史と文化を大事に保管した“生きている博物館”と呼ばれる。特に、古本屋街は<tvN>の人気ドラマ“トッケビ”の撮影地として観光客が絶えない場所だ。
ペダリ村の歴史の中心には、日帝がたてた朝鮮燐寸株式会社もある。“燐寸”は日本語のマッチを指す言葉だ。朝鮮燐寸は、1917年10月4日に設立された韓国初のマッチ工場だ。日帝が朝鮮燐寸をここに建てた理由は、鴨緑江(アムノッカン)一帯の森林から出る木材を船で容易に持ってくることができ、電力事情が他所より良く、1899年に開通した京仁線鉄道と隣接しているため商品輸送に有利だったためと分析される。
当時、ペダリ村一帯は、日光乾燥のために敷き詰められたマッチ棒とマッチ箱に覆われて、町内全体が“マッチ村”を彷彿させたと伝えられる。朝鮮印、双猿印、三猿印など多様なマッチを生産し他を圧倒した朝鮮燐寸は、朝鮮戦争以後に閉業したが、マッチ製造技術者と下請け業者が多く、ここのマッチ産業は一層成長した。韓国人が作った最初のマッチ工場である大韓マッチをはじめ漢陽(ハニャン)マッチ、高麗(コリョ)マッチなど多くのマッチ工場がここに生まれた。好況を享受したこちらのマッチ工場は、1970年代以後にライターが普及してから次々と廃業し、歴史の裏側に消えた。
開港期と朝鮮戦争以後の歴史の跡が残っている仁川ペダリに「マッチ博物館」が開館した。ペダリマッチ博物館は、仁川東区金昌洞の旧東仁川郵便局である2階建て213平方メートル規模の建物をリモデリングして作られた。国立民俗博物館は、仁川市、仁川市東区とともに、韓国のマッチの歴史と開港期の歴史を大事に保管したペダリ村にマッチ博物館を建設し、15日「新・火の玉!仁川マッチ工場」をテーマに最初の展示を披露した。展示は、マッチの歴史と製造過程、マッチによる生活の変化を教える資料200点余りからなっている。ウ・スンハ国立民俗博物館学芸研究士は「燐寸は火の玉を意味する」として「火を得ることが難しかった時期に、一度の摩擦で火をつける道具のマッチは文化的衝撃を与えただろう」と説明した。