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ソウル市議会の建築再発見…波瀾万丈の80年

登録:2015-08-19 09:53 修正:2015-08-20 08:25
市議会、来月歴史探訪ツアー推進

 ソウルは日帝強制占領期や朝鮮戦争を経て数多くの歴史が重ねられてきた都市だ。ソウルの中心にあるソウル市議会の建物には特に多くの歴史が刻まれている。このため世代により異なる場所として記憶される。ソウルで学生時代を過ごしたオ・ヨンホさん(68)にとっては国会であり、彼より一世代を先の人には米軍の社交場だった。この場所の断絶した記憶が一つとなり文化商品として蘇る。

ソウル市議会の建築の歴史 //ハンギョレ新聞社

 ソウル市議会関係者は18日、「建物の歴史を示す史料を収集して『歴史探訪ツアープログラム』を作り、来月に開放する予定」と語った。市議会はそのため外部業者にツアープログラムの開発を依頼した。

 1969年9月、22歳の若者たったオさんには、当時ここで起きた「キム・ドゥハン人糞事件」の記憶が今も生々しい。「新聞に大きく載りました。以前は京畿高校が鍾路(チョンノ)にあったじゃないですか。親しかった人に京畿高に通う不良っぽい先輩がいたのですが、鍾路界隈で有名だったキム・ドゥハンがその先輩に『京畿高に入ったんだからこれからは勉強しろ』と言われたと聞きました。そのキム・ドゥハンが新聞に載ったから記憶は鮮明です」

日帝強制占領期は京城府民館
解放後は米軍社交場に
当時使われたビリーヤード台も

朝鮮戦争前は国立劇場、終戦中に国会議事堂
1975年から15年間は市民会館
1991年から市議会の空間に

 この建物は、朝鮮戦争期の1950年9月の「ソウル修復」後、初めて国会議事堂で利用された。1951年の「1・4後退」後は使えなくなったが、休戦後の1954年6月から1975年7月まで再び国会として使われた。近代民法の制定、内閣責任制改憲、維新憲法制定、ベトナム派兵同意など、歴史の大事件がここで起きた。

 ソウル市議会の建物の出発点は日帝強制占領期にある。日帝は1934年7月から建物を作り始め、1935年12月に完成した後「京城府民館」と名づけた。府民館の大講堂は1800席に達する座席を備え、演劇と講演会、音楽会などが開かれた。ここで親日派のパク・チュングムが組織した大義党は1945年7月24日に親日御用大会を開き、チョ・ムンギ、リュ・マンス、カン・ユングッなどの大韓愛国青年団の団員がこれを防ぐため爆弾を炸裂させた。日帝強制占領期の最後の義挙に選ばれる「府民館爆破事件」だ。

 1945年の解放後には米軍の社交場として利用された。今でも建物の中に当時米軍が使ったビリーヤード台が残っている。1949年にソウル市に所有権が移転され、1950年4月29日から朝鮮戦争前まで国立劇場として使われた。さらに国会議事堂として使われ、1975年9月から1990年までは市民会館(世宗<セジョン>文化会館)別館として利用され各種公演が開かれた。現在のソウル市議会として使われ始めたのは1991年からだ。

 イ・チャンヒョン国民大教授(元ソウル研究院長)は「空間は変化して人々に多様な記憶を残す。現在のソウル市議会建物に対する世代間の異なる記憶を通時的に提示すれば、世代や陣営の間の疎通と共感の領域を広げ、歴史発展の展望を共有するのに役に立つ」と語った。

ウン・ソンウォン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-08-18 23:25

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/704982.html 訳Y.B

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