2か月後の12月18日、日本の京都で開かれた首脳会談で両国首脳はついに正面衝突する。 李大統領が予定された首脳会談の時間を半分以上使って「慰安婦問題は日本政府が認識を変えれば直ちに解決できる問題だ。 大きな次元の政治的決断を期待する」と問題の解決を強力に促したためだ。
当時、日本の執権勢力は自民党に比べて穏健な歴史認識を持っていた民主党だった。 野田前総理は慰安婦問題解決のために「水面下で慰安婦問題の解決のために知恵を絞り始めた。 打開案を韓国に提案したことは事実」と話した。 当時、韓日攻防を詳しく報道した『北海道新聞』2012年5月12日付記事を見ると、当時の斎藤勁官房副長官が2012年4月に韓国を訪問し、△野田首相が李明博大統領に謝罪し△武藤正敏駐韓大使が慰安婦ハルモニを訪問して謝罪し△政府予算を投じて補償する、という案を提示したと書いている。
しかし、この案を受け取ったチョン・ヨンウ大統領府外交安保首席秘書官は「慰安婦支援団体の意向を聞くべき」として難色を示したと伝えられる。日本政府が慰安婦問題に対する“法的責任”を認めていないこの案では、韓国の世論を説得できないと判断したものと見られる。 そして3か月後の8月10日、李大統領の“うっぷん晴らし”的な独島訪問に至る。
野田前総理はこれに対して「私たちの案を伝達したが(韓国では)反応がなかった。 大統領府に私たちの提案が伝えられたとすれば、李大統領が突然に独島に上陸することはなかっただろう」と話した。 それほど当時の日本政府にとって李大統領の独島訪問は突然のこととして受け入れられたという意味だ。 いきりたった日本は、以後世界の舞台で独島と関連した自国領土主張を強化し、日本各地で嫌韓デモが本格化する。 そのような意味で当時の李大統領の独島訪問を阻めなかった大統領府の外交・安保ラインは冷静な歴史の評価を受けなければならない。
慰安婦を巡る3年、両国関係は最悪
譲歩できない下限線を確認しただけ
今回の事態は来年修交50周年を迎える
未来の韓日関係を規定するので
この間の進行経過を徹底的に復碁しなければならない
日本との二者的枠組みだけで
問題を解こうとすれば勝算はない
人権という普遍的価値に根拠を置き
世界の世論と日本を説得していく
長期的で遠大なビジョンが必要
朴槿恵は“洛東江戦線”死守から開始
しかし両国間の水面下での折衝がついえたわけではなかった。当時、水面下での交渉に関与した和田春樹東京大名誉教授は、日本の月刊誌『世界』9月号で「李大統領の独島訪問で韓日関係が険悪化の一途を辿る切迫した状況で、両国が最後の努力をした」と書いている。 すなわち、斉藤官房副長官が10月28日に東京でイ・ドングァン大統領特使と会い、△韓日首脳会談の合意内容を首脳会談共同コミュニケとして発表し、△文言に“道徳的責任”という表現を除いて“国家や政府の責任”を認める内容を含ませ、△日本の大使が被害者を訪問して謝罪文・謝罪金を渡し、△第3回韓日歴史共同研究委員会で慰安婦に対する共同研究を行うという内容で合意したということだ。
和田名誉教授はこれについて「李大統領はこの案を受け入れたが、野田首相が最後の瞬間に決断を下せなかった」と証言している。 日本が“法的責任”を認めなかった最初の案には韓国が、これを認めた二番目の案には日本が反対したわけだ。これを通じて、日本の民主党政権もついに受け入れられなかった慰安婦問題に対する日本の下限線は、日本政府の“法的責任認定”であったことを確認できる。 そして2012年12月、民主党政権が崩れ安倍政権が登場する。
安倍政権の最も大きな特徴は、日本が過去に犯した侵略と植民支配の歴史を否定する歴史修正主義を信奉している点だ。 実際に安倍首相は就任前から、慰安婦動員過程の強制性を認めた河野談話(1993年)と日本が侵略と植民支配によって周辺国に大きな被害を与えたことを認めた村山談話(1995年)を修正する意志を明らかにしていたし、昨年12月には靖国神社を参拝して米国から「失望した」という屈辱的な反発を買うことになる。 これに対抗して、2013年2月に登場した朴槿恵政権は梗塞した韓日関係の正常化の条件として、河野談話と村山談話の継承と慰安婦問題解決のための日本の誠意ある措置を先に要求した。 李明博-野田政権が慰安婦問題をどのように解決するかを巡り“38度線付近”で対立したとすれば、朴槿恵政権は河野談話などを修正するという安倍政権に対抗して就任当初から“洛東江(ナクトンガン)戦線”死守に追い込まれていたわけだ。(続く)