工業団地の労働者は今も約半分が非正規職
「低賃金に苦しむ人生は変わりなく」
「50年前には女工人生、50年後には非正規職人生」
17日午前11時頃、ソウル九老(クロ)区にあるソウルデジタル産業団地(旧、九老工団)の韓国産業団地公団前で約40人の労働者がプラカードを掲げ示威を行った。 1964年に韓国初の国家産業団地として出発し、産業化を先導した九老工団の50回目の誕生日を祝う行事の主催側には不快な出来事だった。 この日の行事のスローガンは「産業化の主役から創造経済の拠点に」だ。 50年前に父親の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が始めた九老工団の50才の誕生日を記念する席に娘の朴槿恵(パク・クネ)大統領が参加した。
朴大統領は祝辞で、韓国の爆発的な経済成長に言及した後、「このような成果は全国各地の産業団地とそこで黙々と仕事をしてきた企業家と勤労者たちがいて可能だった」と話した。
労働者たちは大統領の称賛を、その言葉通りに聞けなかった。 九老工団で仕事をしてきた労働者50人は、この行事に先立ち午前9時頃に記者会見を行い“九老労働者50人宣言”を発表した。 主に女性たちだった。 宣言は「朴槿恵大統領は血の涙を流させた産業化の時期に対する反省と謝罪をしなければならない」という内容を明らかにした。
父親の朴大統領の時代、九老工団の女性労働者たちは一日12時間は基本で、15時間を越える殺人的な長時間労働に苦しめられながら“ラボテ”(ラーメンで普段は間に合わせる)という言葉が流行するほどに窮乏した生活を送らなければならなかった。 1970年、チョン・テイル烈士が遺した「私たちは機械ではない」という叫びは、実際に機械のように扱われた労働者の絶叫であった。 同時に彼らは「女工」という侮蔑的な呼称の中で生きた。
国家は労働者を“産業の担い手”として持ち上げながら、担い手としての権利は認めなかった。 労組を作れば拘束し、争議行為の兆しでも見えれば警察の傍観の中で「救社隊」と呼ばれる輩の鉄パイプと角材が振るわれた。 労働庁は労働者の味方ではなかった。
2000年にソウルデジタル産業団地に名前を変えた九老工団労働者の暮らしはさほど良くはならなかった。 ソウル南部地域労働者権利獲得事業団「労働者の未来」が昨年初めに九老工団労働者2685人を対象にアンケート調査した結果を見ると、約半分(45.9%)が非正規職だ。 15.7%は最低賃金(4860ウォン)未満を受け取る低賃金労働者だ。
この日の50人宣言には、1985年に九老同盟ストライキ当時に大宇アパレル労組事務長として徹夜座り込みを組織したという理由で拘束されたカン・ミョンジャ氏(51)が名乗り出た。彼女は『ハンギョレ』との通話で「工団生活30年間に変わったことがあるなら、私の手に携帯電話が握られ、ガラスの壁の建物がたくさんできたことだ。 その時はそれでも正規職だったが、今は非正規職があふれている。 低賃金に苦しむ労働者の人生は変わらなかった」と話した。 カン氏は今でも九老工団でミシンを踏んでいる。
キリュン電子の組合員はそんな風にして非正規職になった女工の不安定な人生を雄弁に語る。 1895日にわたる闘争の末に2010年に復職に合意したが、会社は昨年12月30日に九老工団から逃げ去り、「女工」たちは17日まで九か月間にわたり空っぽの事務室で座り込みを続けた。 彼女たちはこの日夜、ソウル光化門(クァンファムン)近隣で「社会的合意の破壊は犯罪だ」という名の文化祭を開いた。