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[土曜版 カバーストーリー] 「人身売買に遭い毎晩泣きながら米兵を受け入れた」

登録:2014-07-05 19:06 修正:2014-07-06 22:47
基地村女性 キム・ジョンジャの証言
米軍基地村には人身売買された未成年女性たちも多数いた。 だが、国家はこのような状況に目を瞑った。 ‘米兵にうまく接待してくれ’という教育ばかりを行った。 教育を始めた公務員たちは、基地村女性たちを‘ドルを稼ぐ産業の担い手’と褒め称えた。 1970年代、東豆川(トンドゥチョン)の基地村風景. <ハンギョレ>資料写真

 ‘私たちが大騒ぎすれば、日本の右翼だけを利する結果になるのではないか?’米軍基地村女性たちが国家を相手に損害賠償訴訟を準備する時、最大の悩みがこれでした。 だが、彼女たちは韓国政府が米軍のための慰安施設と女性たちを管理していたと暴露しました。 国家の謝罪を要求しています。 歴史的真実は一体何でしょうか。 私たちがよく知らなかった米軍基地村の不都合な秘密。 キム・ジョンジャ氏の証言から調べます。

 「私はキム・ジョンジャ(仮名)です。 今年で64歳です。 大きな持病はありませんが、この頃ヒザがちょっと痛みます。 もう若くない歳ですが、今日は必ず言っておきたい話があって、このようにインタビューに出て来ました。 私は米軍向けの慰安婦でした。 基地村に人身売買されて、一生を米軍にあてがわれて無念に生きてきましたが、誰も私や私の同僚たちの話を聞こうとはしませんでした。 自発的にそういう仕事をしたのではないかという色眼鏡をかけて。

 私たちが米軍から稼いだドルで、韓国をこのように立てなおしたのに、その時は私たちに‘愛国者’だと言っていましたが、今国家は私たちを見て見ぬフリをしています。 私たちは年老いて病気にかかりつつあります。 私の先輩姉さん(基地村の同僚)がだんだん亡くなってくのをこれ以上黙って見てはいられません。 それで勇気を出すことにしました。

 私たちは国家を相手に損害賠償請求訴訟を始めました。 私たちがなぜ国家にこのような戦いを挑むのか、私の人生を通じて説明したいと思います。」

 訴訟に参加した女性122人が全員キム・ジョンジャさんと同じ経験をしたわけではない。 ただし、その被害の構造が同じような女性たちが相当数いる。 キム・ジョンジャさんの証言をその代表として調べるものの、基地村での経験は女性ごとに異なっているという点を明らかにしておく。

 米軍基地村で米軍と性売買を行う女性たちは、米軍慰安婦、基地村女性、特殊接待婦、洋公主(ヤンコンジュ)などと呼ばれてきた。 政府は慰安婦と特殊接待婦を混ぜて使ってきた。 1957年に制定された‘伝染病予防法施行令’第4条で規定した‘慰安婦’は、1969年の改正法律でそのまま使われ、1977年の改正時に削除された。 しかし1990年代初期まで市・郡の公務員たちは、米軍基地村女性たちを韓国男性と性売買を行う淪落女性とは区分して慰安婦と呼んだ。(<米軍慰安婦基地村の隠された真実> 39ページ)

1950年代、戦争のために父親をなくし
義父に性暴行され、金を稼げる友人にそそかされ
16歳で家を出て、訪ねて行ったそこから地獄は始まった

「その時期でも性売買は不法
米軍基地村だけ合法だった
公務員たちは月に一度ずつ
‘米軍にうまくサービスしなさい’と言いながら
愛国者だと褒め称えました」

20歳に偽装させる抱え主…一日に3,4人ずつ受け入れて

 「私は1950年1月に生まれました。 どこで生まれたかは知りませんが、幼かりし時に天安(チョナン)で暮らしました。 実の父は軍人でしたが、戦争の渦中に私を見に帰って来て脱走兵になって憲兵に捕まりました。 それっきり殴られて死んだという話だけを聞きました。 母は後に再婚しました。

 私が12才ぐらいからか、私の義父は母の居ない時を狙って私を強奪しました。 義理の兄たちも私に手を出しました。 それを母に話すこともできずに、じっと我慢していましたが、16歳の時(1965年頃)家を出てしまいました。 私の小学校の時の友人がいました。 金を稼げる所があると言いました。 紡織工場だと言いました。 その子についてソウル駅まで汽車に乗って来ました。

 ソウル駅から友達について、またどこかに行きましたが何かが変なのです。 紡織工場は見えなくて、米軍の兵隊ばかりが路上で‘サラ、サラ’と囃し立てながら歩き回っていました。 ある家に入ると、家毎に‘ナムバー’が付いていました。 1号室、2号室、3号室、こんなふうに。 私は旅館だと思って眠りました。 私の友達は、翌日ちょっと行って来ると言って出て行ったきり帰って来ませんでした。

 (50代くらいの)おばさんが現れました。 私について来いと言いました。 工場に連れて行くのかと思って、ついて行きました。 ところが私に‘お前の友達が借金を返さずに逃げたので、代わりにお前が返せ’と言いました。 いくらなのかは言いませんでした。友達の代わりにお金を返せば私が出て行くことができると言いました。 どのように金を稼げばいいのか尋ねました。 夜になって姉さんについて行けば分かると言いました。

 後で知ったのですが、私が行ったところは坡州(パジュ)ヨンジュッコルという所でした。 米軍基地の周辺で女たちが身を売る所でした。 私の友達が借金を返せずに、私を売り払ったということでした。」

 キム・ジョンジャさんは人身売買されたと言う。 だが、そのことを理解するにはキム・ジョンジャさんの当時の年齢はあまりに幼かった。 友達の行動は悔しかったが、キム氏はしかたなく友達の借金を返すことを決心した。

 「おばさん(抱え主)は私に、クラブに出て行ってお客さん(米兵)を連れて来るように言いました。 私は3日くらいして、その抱え主の家から逃げ出しました。 ところが路地で捕ってしまいました。 ‘死ぬほど’殴られました。 もう一回逃げたら島に連れて行って殺してしまうと言いました。

 (抱え主が)パスを貼ってくれセコナール(鎮静剤)をくれました。 気持ち良くからと言ってくれました。 一回飲めば(中毒になり)二回飲むことになり、三回飲めば四回飲むことになります。 客を連れてこいと送り出されると、私は恐くて何も言えませんでした。 正気では恥ずかしくて客を引っ張ることなどできません。 私はその薬が何なのかも知らず、飲み続けました。」キム氏は後になってこれが麻薬であることを知るようになるが、すでに手遅れだった。 薬を飲んでこそヒッパリ(客引き行為)に出かけられた。 キム氏は米兵を連れて来るまで、家(宿舎)には入れなかったと言う。 1,2か月仕事をすれば借金を返せると思い、キム氏は黙って目をぐっと瞑って基地村で仕事をすることになる。 しかし現実はそうではなかった。

 「そこから抜け出すことはできませんでした。 借金は増え続けました。 部屋代と化粧品・美容院代とセコナール代を払わなければならず、いくら仕事をしても返せません。 利子は増え続けました。」

 普通、基地村には慰安婦女性たちの自治組織がある。 姉妹会などの名前で呼ばれる。 基地村で仕事をするには、そこの会員として登録しなければならない。 姉妹会では明らかに未成年者であることを知っていながら会員証を与え、検診証(性病に罹っていないことを確認する証明書)を発行したという基地村女性たちの証言が多い。 普通、抱え主は10代の子供たちに20歳と言うように強要したという。

 キム・ジョンジャさんの人生は地獄のようだった。 普通、基地村女性たちは一晩に米軍兵を三,四人ずつ受け入れなければならないケースが普通だった。

 「そうすれば、そこ(陰部)がどれほど痛むかわかりません。 ロング・ショート(性売買時間の単位)いくらしてもキリがありません。 ロングは自分の部屋で夜を明かして朝早くに出て行くもので10ドル受け取ります。 ショートは自分の部屋で30分から1時間で出て行きます。 お金は全部おばさんが持って行ってしまいます。 私は直接受け取れません。 おばさんは一ヶ月毎に計算すると言っておいて全て奪い取りました。 1~2ヶ月で借金を全て返せると思っていましたがそうは行きません。」

 基地村の10代の子供たちは算法に明るくなかった。小学校もまともに卒業していない子供たちが大半だった。 抱え主は恐怖の対象で、帳簿に何がどのように記録されているのか、尋ねるなどは思いもよらなかった。 そんな風に女性たちは、いや10代の子供たちは、夜通し泣いて、夜通し米兵のノリゲ(おもちゃ)になって苦痛にもがいた。

 「逃げることはできませんでした。 仕事に行く時、いつも男(抱え主の下で働くゴロツキ)を付けて監視します。 風呂屋には自分の家(抱え主の家)で一番長くいる女、主人にへつらう女と一緒に風呂に行かせます。

 警察に申告することもできません。主人の家には警官が昼間に遊びに来ます。 主人のおばさんに姉さんと言いながら入ってきます。 すると、おばさんはタバコも買い与えたりします。 最初の内は。私はおばさんの弟だと思いましたが、一緒にいた先輩姉さんたちが刑事だと耳打ちしてくれました。 主人が皆お金をやっているんだと。 ‘警察に申告しても、私は出て行けないんだな’そのことを知るようになりました。 私が死んでこそ、ここを出て行けるということが分かりました。」

朝鮮戦争はこの地の女性たちにも癒やしがたい傷を与えた。米軍基地村女性たち122人は、国家を相手に被害補償請求訴訟をすることにした。 先月25日午後、ソウル大方洞(テバンドン)のソウル女性プラザ建物4階で開かれた訴訟記者会見の様子。 カン・ジェフン先任記者 khan@hani.co.kr

なぜそんなにまでして米兵と結婚しようとしたのか

 「それでも一度は勇気を出して逃げました。 ヨンジュッコルに人身売買されて数か月後のことでした。 派出所に逃げ込みました。 40代と思われる警察官が‘なぜ他人の借金を請け負っておきながら逃げるのか。 返さなければ営倉行きだぞ’と言いました。 抱え主が警察署にお金を掴ませていた時代でした。 止むなく再び抱え主の家へ帰りました。 小部屋に閉じ込められて、また死ぬほど殴られました。」

 キム・ジョンジャさんは死んでも絶対に山に埋められたくないと言う。 彼女が山で体験した苦痛な経験のためだ。

 「山に行って米兵を受け入れなければならない時が一番恐かったです。 部隊が訓練に出て行けば、私たちもついて行かなければなりませんでした。 夜暗くなれば、毛布一枚持って、おばさんについて行きます。 おばさんが歩哨に立つ米兵とゴチゴチョ話します。 そうすると訓練場所に入ることができました。

 銃を持って立っていた男たちが幕舎に行って、女たちと寝たい者は出てこいと言います。 E-6、E-7(E-6は下士、E-7は中士)らも皆しました。 将校は特別に幕舎の中でします。 一般兵士たちは訓練場内の木のあるところに毛布を敷いてしたり、穴を掘っておいてそこでします。 米軍が掘っておいた塹壕ですね。」

 基地村女性たちはそんな風に訓練場にまで呼ばれて行って‘空を屋根として、地べたを毛布として’米兵を受け入れた。 きちんと洗う時間などなかった。 金を稼いで降りて行けば抱え主に怒られない。 ある米兵はお金の代わりに自分たちが食べるこびりついたご飯を投げつけて女性たちの気を焦らせた。 女性たちは一度訓練場に行けば、そちらで明け方までいて帰って来たという。

 安全な性関係は基地村女性たちには保障されていなかった。 「ある米兵はコンドームをつけずにします。 私たちには拒絶できません。 それで堕胎も本当にたくさんしました。 堕ろした子だけで17人です。」保健所には抱え主が引っ張って行った。 強制的に堕胎させるためだ。 腸まで全てえぐられるような苦痛に耐えて、女性たちは堕胎手術に耐えた。 堕胎すると、からだが殴られたように痛み、それでも再び仕事に行かなければならなかった。 抱え主は堕胎手術で痛んだからだを養生する時間もくれなかった。 薬と水一杯飲んで再び仕事をするケースが大半だった。 一日休めば借金がどのくらい増えるのかも分からなかった。

 「こうやって生きなければならないのだから、死にたいとばかり考えるようになります。 基地村では月に二三度は葬儀を行わなければなりませんでした。 鉄道に飛び込んだり、煉炭に火をつけてそのガスで。 私も三回死のうと試みました。 ところが何の運命か、全部助かりました。」

 キム・ジョンジャさんは死のうとしても死ねなかった。 共同墓地で自殺を企てれば、墓地の管理人が発見したし、家で動脈を切れば自分に会いに来た米兵が発見したりした。 事情を知らない人々は‘若いのになぜ死のうとするのか’で尋ねたりした。 キム氏は何も言わずに涙を流すのみだった。

 「なぜ私たちがそんなにまでして米兵と結婚しようとしたか分かりますか? そうでもしなければここから脱出する方法がなかったからです。 借金を返す方法がありません。 逃げようとしても警察も誰も助けてはくれません。 私たちには国家はありませんでした。」

 いや、国家はあった。 米軍に性接待をうまくしろと教育する国家はあった。 姉妹会の会議が月に一回ずつ開かれれば、女性たちは参加して教育を受けなければならなかった。 そうしなければ営業ができなかった。 会議に行けば、憲兵、C.I.D.(米軍部隊犯罪捜査課),保健所職員、警察署長、郡庁公務員たちが皆来ていた。 米軍はスライド(フィルム)を利用して、性病について説明した。 ここまでが彼らのすべき仕事だと理解していたようだ。

坡州(パジュ)ヨンジュッコルに売られた後
東豆川・群山(クンサン)・平沢を転転とし
40代半ばで基地村から抜け出して
逃げたくても捕まるかと思えば
他に選択の余地はなかった

「米軍部隊が訓練に出て行けば
私たちも山について行かなければなりませんでした
その時が最も怖かったです
山ではしないと反抗して
死んだアガシ(お嬢さん)もいました」

‘討伐’された性病疑心者ら、丘の上白い家に
しかし、公務員たちはおかしな教育を更にした。

 「出て来る度に言う言葉はこうでした。 ‘お嬢さんたちがサービスをもっとたくさんしてください。 米兵に絶対に悪口を言わないでください。 Buy me drink. (お酒を奢って)と言いなさい。 そうすれば東豆川(トンドゥチョン)に米兵たちがもっとたくさん来ます。 韓国も金持ちになって暮らしていかないといけないでしょう。’郡守は私たちにドルを稼ぐ愛国者と褒め称えました。 そう言われると、私たちはそうしなければいけないような気になります。」一種の精神教育のようなものだった。女性たちはなぜこのような教育を受けなければならないのかと思ったが、国家が老後に責任を負うと言えば、その通りに受け入れたと言う。

 「トッコリ(東豆川市 光岩洞一帯)に工場を作り、1階にはかつら工場、上階には寮を作ると公務員たちが説明しました。 年を取ったらここで私たちが暮らせると郡守がそう言いました。 土地を全て買ってあると。 だから熱心にドルを稼げと。 私たちは老いても行くところがあるんだと、そんな風に信じていました。 だが、その約束が守られたのは一つもありません。 抱え主は私たちが稼いだお金で家も買い、土地も買ったけれど。 ある悪名高い抱え主は後になって京畿道(キョンギド)議員になりました。」

 警察は人身売買で売られてきた子供たちを救出することには関心がなかった。 性病にかかったと疑われる人々を捕まえて行くことだけに関心を持っていた。 捕まえて行く時も非人間的だった。

 「性病に罹った米兵が訪ねてきてcontact(米軍性病患者に性病を感染させたと疑われる女性を名指しすること)すれば、その場で連行されます。 名指しされれば行くんです。 その米兵がどこで性病に感染したかは重要ではありません。 私たちはそれを討伐されると呼びました。」‘討伐されて’派出所に連れて行かれ留置場に入れられた後、直ちに落検者(性病検査に通過できなかった者)収容所に移されるケースが多かったという。 性病があるかないかはまともに確認しなかったと言う。 性病があったとしても、単に患者であるだけなのに罪人の如く扱われた。

 「白い家(東豆川市 逍遥山(ソヨサン)下の洛検者収容所を基地村女性たちは‘丘の上の白い家’と呼んでいた。) そこに行けば広い運動場があるが、討伐された女たちが連れてこられれば(建物の門には)施錠され、まるで刑務所のようでした。 外には出られません。 トイレだけは行けました。 留置場のようなところで5人ずつで寝なければなりません。 外に面した窓には鉄格子がはまっていて、面会に来ても鉄格子越しに顔を見ながら話さなければなりませんでした。 私たちが罪人ですか? 患者をなぜ罪人扱いしたのか理解ができません。」

 性病に罹った米兵にどんな措置をしたかは女性たちには通知されない。国家はひたすら米軍を相手にする女性のからだをきれいにさせることだけに関心があるように見えた。

 「私たちはペニシリンを打たれました。 それを打たれてショックのために死んだ人もいます。 打たれれば歩けません。 お尻の筋肉が固まって、脚が切れていきそうになります。それを二日に一回打たれるんです。 あまりに苦しくて屋上に上がって落ちて死んだ先輩姉さんもいたし、半分気がおかしくなった姉さんもいました。 私は白い家に(1982年頃) 2週間入れられて出てきました。」

 キム・ジョンジャさんは(1965年頃)坡州(パジュ)ヨンジュッコルに売られて行った後、東豆川、龍山(ヨンサン)、群山、平沢とあちこちを転々として、40代半ば(1990年代中盤)に基地村から抜け出すことができた。 25歳の時(1974年頃)、基地村から一度逃亡して出てきたが、再び東豆川の基地村に戻ったという。

 「その時は他に選択の余地がありませんでした。 どこへ逃げてもチンピラを送って私を捕まえに来るだろうと思いました。 また、どこかの工場に就職するには私の身分証を提出しなければなりませんが、私が町役場に行って住民登録証の発給を受ければ、抱え主の家への借金のために、警察が私を捕まえに来るだろうと思いました。 それでやむを得ず…。」

 キム氏は‘自ら進んで基地村で生きてきた女性たちを被害者だと見れるのか’という質問にこのように答えた。

 「お前たちが好きで(基地村生活を)したのに何が不満か、そのような質問を本当に多く聞きます。 韓国政府が米軍を引き込まなかったら、私たちがこのようになったでしょうか? 後で知ったのですが、その時期にも性売買行為は法律で禁止されていました。 米軍基地村だけで性売買が合法でした。 朴正熙政府がなぜそのような法を作ったのでしょうか。 私にはよく分かりませんが、米軍をずっと居させるためにそのようにしたのではないでしょうか? 私たちにドルを稼がせようとして。」米軍基地村の形成過程に国家のどんな政策が影響を及ぼし、それが正しかった否かは論議の余地がありうる。 しかし20歳にもならない少女が、基地村に売られてきて、そこから抜け出せずにいるのに国家が放置し続けたということについては、論議の余地なく国家の責任が問われなければならない。 キム氏は自身の幼い時期を国家が賠償しなければならないと信じている。

‘食母(女中)の仕事’紹介してやると言うのでついて行ったら基地村

 「余りにくやしくて死にたいくらいです。 私のようにそこへ人身売買されて行った人はとてもたくさんいます。 職業紹介所で食母の仕事を紹介してやると言われてついて行ったり、ご飯を食べさせてやると言ってついて行ったり、行ってみると基地村だった場合がとても多くありました。 米軍慰安婦になることが分かっていれば、誰がそこについて行くでしょうか。

 日本軍慰安婦も人身売買されて行った人が多いと聞きました。 日本軍慰安婦は被害者として認定するのに、なぜ米軍慰安婦被害者は国家が目を瞑っているのですか。 やられた人はいるのに、なぜ責任を負う人はいないのですか。 あなたの娘さんが捕まって行ったなら、黙っていられますか? 同僚の姉さんたちが老いて病気にかかり亡くなっています。 国家を相手に訴訟を準備してからでも、すでに3人も亡くなりました。 私は謝罪を望みます。 老いて病気にかかった私たちのからだに、国家が責任を負うことを願います。 それが国家がしなければならないことだと信じています。

 天にいる私たち(基地村)の姉さんたちのために、私がこのように立ち上がりました。 誰かは証言しなければならないと言うので、私がこのように勇気を奮い起こしました。 多くの人々が私たちの話に耳を傾けて欲しいです。 どうか、お願いですからちょっと報道してください。」

 キム・ジョンジャさんは<ハンギョレ>とのインタビューをするまで、煩悶を繰り返した。 彼女の幼い時期の記憶を想いうかべること自体が途方もなく苦痛なことだ。先月20日に約4時間にわたるインタビューを行った時、彼女は涙が止らなかった。 30分証言しては10分泣いて、30分証言して再び10分泣くことが繰り返された。 落検者収容所で体験した話を告白する時は嘔吐までした。

 人生全体が国家の干渉した性暴行で汚された彼女にとって、今回のインタビューはそれほど辛い過程だった。 したがってインタビュー時には詳しい内容を尋ねずに、最小限の質問だけをしようと努力した。 代わりに、キム氏と行ったインタビューと彼女の証言録<米軍慰安婦基地村の隠された真実>(2013)の内容を総合してこの文を書いた。

 キム・ジョンジャさんはインタビューの後、海辺に行ってセウムト(基地村女性支援運動を行う市民団体)活動家たちと翌日まで号泣したという。 辛いインタビューを決心してくれたキム氏に心から感謝の気持ちを伝える。

 キム・ジョンジャさんは現在、食堂でアルバイトをしながら最小限の生活費を稼いでいる。 彼女を扶養する家族はいない。 代わりにセウムトの支援を受けている。

ホ・ジェヒョン記者 catalunia@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/645563.html 韓国語原文入力:2014/07/04 23:47
訳J.S(9338字)

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