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[旅客船沈没 大惨事]「子供たちを引き上げる時、海洋警察救助隊は後から見ているだけだった」

登録:2014-05-04 22:25 修正:2014-05-05 06:46
[インタビュー] カバーストーリー‘セウォル号 数十人救助’キム・ホンギョン氏
(1)セウォル号が45度程度傾いた時、一人の檀園高生徒が船室の廊下を歩き回り、生徒たちの位置を大人たちに知らせている。 この生徒は結局救助された。 (2)セウォル号が傾いて自販機などが倒れている。 (3)船室から脱出した檀園高生たちが救助を待っている。 (4)大人たちが消防ホースを船室側に投げ、生徒たちを甲板上に引き上げている。 (5)檀園高生1人が甲板の欄干を掴んで危なっかしく立っている。(6)出動した海洋警察救助隊が船室内に入らず、大人たちが生徒たちを救助している様子を外側から見ている。 前にいるのはキム・ホンギョン氏の顔。 (7)檀園高生1人が甲板の床に掴まって救助を待っている。この学生はセウォル号とともに海中に沈没し水面上に浮び上がり助かった。 (8)海洋警察のヘリコプターが出動し甲板上の乗客を救助している姿。 写真キム・ホンギョン氏提供

▲沈没するセウォル号から子供たちを救出した後、船が海に沈む直前に脱出したキム・ホンギョン氏の話は、事故直後に言論報道で多く紹介されました。 キム氏は義士です。 ところでキム氏についてもっと聞かなければならない話がありました。 キム氏は事故初期に出動した海洋警察の救助作戦を近くで見た目撃者です。 キム氏はハンギョレに言いたい話があるといいました。 彼に会うために済州島(チェジュド)を訪ねました。 ウンディーネの遺体収拾遅延疑惑を解明するために、仁川(インチョン)で潜水士にも会いました。

 低く垂れ込めた暗雲は、今にも涙が溢れそうな悲しみを含んで済州島(チェジュド)を覆っていた。 セウォル号の子供たちが修学旅行に行こうとしていたその済州島だ。 キム・ホンギョン(58)氏は28日夜、済州島 西帰浦市(ソギポシ)で真っ黒い雲を眺めながら思いに沈んでいた。

 彼はセウォル号惨事現場で数十人の子供たちを救出した。 船長や乗務員、多くの大人たちが自分の生きる道を求めて忙しい時、彼は最大限に子供たちを救い出し、自分は最後に船から脱出した。 数十人しか救えなかったという残念さを強く感じている。 記者がキム氏に会った時、放送では‘助けてという檀園高生の最後のカカオトーク メッセージの発信時刻は午前10時17分であることが確認された’という検察警察合同捜査本部の発表を伝えていた。

 事故の衝撃が強かったが、彼は珍島からソウルの自宅へ帰らずに、職場のある済州島に来た。 休暇をとることは困難だった。 配管設備技術者であるキム氏は、事故当日は、済州島のある業者に就職し初出勤するはずだった。 済州島の工事現場で使う車両を持って行かなければならず、事故当日に仁川(インチョン)で船に乗った。 それがセウォル号であった。

 キム氏は4月16日の事故申告を受付けて珍島近海に出動した海洋警察庁海洋救助隊があまりにも粗雑に対応して、助けられた筈の多くの子供たちを救助する機会をのがしたと主張した。 自身がカーテンと消防ホースをつなぎ合わせてロープにして、子供たちを引き上げている間に救助隊員はその様子をそばで見ているだけだったということだ。 船室内に残っていた乗客に外に出て来るよう海洋警察が放送をする姿も見られなかったという。

海洋警察救助隊員の「職務遺棄」
珍島体育館で放送局の記者に話したが
全く電波に乗らず
失敗が繰り返されないことを願う気持ちで
今回インタビューに応じることにした

マンション団地の配管設計を引き受けることになり
済州の職場に初出勤に向かう途中に事故に遭遇
事故直後、カーテンと消防ホースで
高校生数十人を救い出してから自分も脱出
毎晩、沈没の時の情景が思い出され苦しい

時間が足りなくて、それ以上引き上げられなかったその瞬間

 4月28日、海洋警察は一歩遅れてセウォル号出動現場の映像を公開した。 海洋警察の船舶は、船体の周辺だけをぐるぐると回り、船室の窓を破る作業も遅れて始めた。 高校生たちが多くいたセウォル号4・5階船室に迅速に救助隊員を投じて、生徒たちを救助していれば、もっと多くの命が助けられたという世論の批判が出てきた。

 キム氏の証言はそれより更に一歩前に出る。 船に乗り移った一部の海洋警察救助隊員さえも、船内にいる乗客を救出しに内部へ入ることはなく、船の外側に出てきた乗客を救助船に乗せただけだというのが彼の主張だ。

 「事故直後、私にインタビューに来た放送局の記者たちにこういう話をしました。 ところがどういうわけか、この話だけを編集して抜いてしまいました。 私が携帯電話で撮った事故当時の映像だけを持っていきました。」セウォル号に乗る移って来て、ボーッとしてキム氏の救助活動を眺めている救助隊員の姿は、キム氏が携帯電話で撮った動画でも一部確認できる。 キム氏は救助途中、時々短い細切れの映像を撮った。

 キム氏は28日夜、西帰浦市のあるカフェで2時間余り自身がセウォル号で体験した事を詳しく打ち明けた。 事故当日に対するキム氏の深層インタビューは今回が初めてだ。

-事故から今までどのように過ごしたんですか? 困っていることはないですか?

 「精神的にちょっと辛いです。 救えなかった子供たちの顔が頭に浮かんできます。 遠くに離れていた子供たちが、私を見ながら助けてと言っているのに、時間がなくて引き上げられなかったその瞬間が、映像のように浮かんできます。 夜に眠っても1,2時間毎に目が覚めて、再び眠る繰り返しです。 考え事をしていても突然考えが急に途切れるのです。 何もわからない状態から数秒後に再び以前の記憶と現在の状況が連結される状態が繰り返されています。 自然に治れば良いのですが、そうでなければ病院に行かなければならないようです。 今は仕事があるので眠れません。」ソ・チョンソク教授(ソウル神経精神科院長)は、キム氏の症状を記者から伝え聞くと、典型的な外傷性ストレス症候群の症状だと説明した。 ソ教授は「そのような症状が今後も繰り返されるならば外傷性ストレス症候群を疑われる。 初期対応が重要なので、ひとまず病院の精神科で相談を受けなければならない」と薦めた。

 キム氏は配管設備の専門家だ。 新しい建物を作る時、キム氏は暖房・水道・汚廃水の配管設備を務める。 配管設備がきちんとしていなければ建物は機能できない。 配管設備は人に当てはめれば大腸や小腸などの臓器に当たるとキム氏は説明した。 彼は30年以上にわたりその仕事だけをしてきたベテランだ。 職業に対する自負心が高い。

 「1970年代後半から配管設備の仕事を習いました。 その時は、洋風の家がたくさん建てられた時期でした。 水洗式トイレと石油ボイラーなどを新しく設置する家が多かったんですよ。 配管設備は有望職種でした。」

救助を要請した4階の100人…60人は助けられなかった

 キム氏は昨年病院に永く入院しなければならないほど病んでいた。 かろうじて回復して、済州島に新しい職場を見つけた。 新しく建つ大規模マンション団地の配管設計を引き受けることになってキム氏は喜んだ。 4月15日の夜、仁川港で済州島に向かうセウォル号に乗った。 工事現場で使うワゴン車を持って行かなければならず、飛行機ではなく船便を利用した。 この日は霧が濃くて何か感じが良くなかった。 それでも16日から勤務しなければならないので、船が無事に出港することだけを望んだ。

 「元々は15日午後6時30分に出港する予定なのに、霧のためいつ出港できるか分からないと言われました。 夜11時まで待ってみようと思って待機していると夜9時30分に出港しました。 不幸中の幸いと思いました。」

 「ザーッ」と音を上げてセウォル号が仁川の海をかき分けて出航した。 甲板に出ていたキム氏は夜の海風を全身に受けた。 輝く仁川大橋がどんどん遠ざかっていった。 久しぶりに見つけた新しい職場に明日から出勤するというときめきが、キム氏の胸をドキドキさせた。 船室内に入ると、元気に騒ぐ子供たちの声が聞こえてきた。 修学旅行に行く安山檀園高の生徒たちが船室をあっちこっち飛び回って遊んでいた。

 「世の中で一番幸せそうに見えた子供たちでした。床をごろごろしたり、あっちこっちに飛び回って。 危うく霧のために出港できないかと心配したが、予定通り修学旅行に行くことになったので子供たちはとても喜んでいました。 そのような子供たちが、翌日には声も出せずに死んだので…。」キム氏は声を詰まらせた。 客室だけで5階建て、高さ30m、長さ146mに及ぶ旅客船が沈没するとは、キム氏にも生徒たちにも想像できなかった。

 記者は昨秋、セウォル号に乗って済州に行ったことがある。 当時も非常時の脱出方法やライフジャケットの説明などを受けなかった。 船は多少古く見えたが、大型旅客船なので確実な安全点検を受けているだろうと考えた。

 「清海鎮(チョンヘジン)海運は安全不感症にかかった会社でした。1年間の職員安全教育費が54万ウォンだと報道されました。 だから非常時の対処要領がそうだったのでしょう。」キム氏がため息をついた。

 キム氏は4月15日は夜早く5階の客室(寝室)に入り眠ろうとした。 彼の部屋は船の右側にあった。 ブーンというエンジン音で熟睡はできなかった。 翌朝6時30分に目を覚ました。 客室でテレビを見て、時間をつぶした。 朝7時30分‘朝食の用意ができました’という案内放送が流れた。 朝食は8時30分まで提供された。 キム氏が食事を終えたと記憶している時刻は7時55分頃だ。

 「朝食を食べて甲板を少し散歩して自分の部屋に戻りました。 正確な時間は思い出せないけれど8時30分をちょっと過ぎた頃でした。 (海洋警察が発表したセウォル号事故発生時刻は午前8時48分)船が突然左に傾き、ドーンという音がしました。船が(左に) 15度程度傾きました。 その状態が15分程度続いたのです。 最初は事故かどうかわかりませんでした。 ただ荒々しい波のようなものにぶつかったようだと思いました。 何の案内放送もありませんでした。 そうする内に(9時3分頃)船がますます傾き始めました。 すると‘危険だからじっとしていなさい’という案内放送が流れたのです。 3回流れました。船がさらに傾いて45度まで傾きました。 その状態で40分程度維持しました。 もしその時、海上警察が投入されていたならば、より多くの生徒たちを救えたはずなのに…」

-じっとしていろとの放送が流れたのに、どうして外に出てきたのですか?

 「初めは私は死ぬような状況ではないと思っていました。 悪くとも海に飛び込めばどうにかなるだろうと思っていました。 ところが船が15度傾いた状態で留まらずに45度まで傾きました。 事故だと直感しました。 もはやじっとしていては駄目だと思って、外の状況を把握しなければならないと考えました。 その時に船長が乗客に客室の外に出るよう言っていなければならなかったのです。 そうしていれば更に数十人は助かったはずなのに。 海洋警察の救助船がまもなく到着するという放送だけが流れました。」

-出て見たらどんな状態でしたか?

 「幸い5階(船尾側)の客室は右側にあったので、船が左に傾いた状態だったので私は水面から最も上方にいることになったのです。 外に脱出しやすい位置だったんですよ。 脱出するために廊下を歩いていると‘おじさん、おじさん’と(檀園高の)子供たちが切なく呼ぶんです。 瞬間、下を見ると子供たちが身をすくめて座っていました。船が傾いてバランスを取るのが難しく座っていたのでしょう。 目と目があいました。子供たちの最初の言葉が‘ここに学生たちがたくさんいます。 助けてください’でした。 おびえていました。 わあわあ泣いている子供たちもいたし。 ライフジャケットは紐をしっかり縛らなければならないのに、ただ引っかけているだけの子供たちがいました。 紐をしっかり縛れと話もして…。 私が助けなければいけないと考えました。」

-生徒たちは何人くらいいたんですか?

「4階だけで100人程度いました。 私が行ったり来たりして40人余りを助けたので、残りの60人余りは助けられませんでした。」

(9)船室内に水が満ちて上がってくる様子。 2番の写真に写っている自販機が水にふわふわ浮いている。 キム氏は船室内の子供たちの悲鳴を聞いた。 (10) 90度傾いてしまったセウォル号。 (11)180度ひっくり返り海中に消えていくセウォル号。 写真 キム・ホンギョン氏提供

カーテンがほどけて子供たちが墜落、消防ホースに替える

-高校生たちはどんな方式で救出したのですか?

「船が傾いてしまい床が壁になった状況でした。 高さ6m程度の壁ができてしまうと、子供たちは這い上がって来ることはできませんでした。 私と同じ客室を使っていた人々(キム氏、他3人)と一緒にカーテンを探して、紐のようにつなげて、子供たちのいる下へ投げました。 子供たちがそれを掴むと、大人たちが引き上げました。 ところが縛ったカーテンが度々ほどけて上がってきた子供たちが墜落したりもしました。 これでは駄目だと思い、今度は消防ホースを見つけて下へ投げました。 子供たちがが自分の番を待って顔を出した姿を思い出します。」

-大変じゃなかったですか?

「船が横になってしまうと、私が自分のからだを支えるところがありませんでした。 私たちもななめに傾いた壁にからだをもたせかけた状態で(子供たちに投げ下ろした)カーテン(ロープ)をやっとの思いで引き上げました。」

 キム氏は事故の瞬間を思い出して非常に苦しがった。 コーヒーショップで対話をしている中間中間にタバコを吸いに外へ出かけた。 タバコをやめていたのに、事故の後に再びタバコを吸い始めたと話した。

-救助隊はいつ頃現れましたか?

 「子供たちをカーテンで引き上げる時までは救助隊員は到着しませんでした。 そうしているうちに救助隊が到着しましたが、それでも私が約30分間子供たちを数十名さらに救い出しました。」

 キム氏が事故当時の様々な瞬間を携帯のカメラで撮った映像は放送会社に渡され、繰り返し放送された。 (船室内に)水が上がった場面、子供たちが救助された瞬間などが含まれていた。

-急迫した状況であったのに映像を撮った理由は何ですか?

 「救助隊員が(傾いた)船の外側の欄干上に上がってきました。 ところが船内に進入しません。 なぜ船内に進入をしないのか、いぶかしく思いました。 私が子供たちを引き上げるのを呆然と見ているだけで、どこかに消えて再び現れることを繰り返していました。 それで映像を撮ったのです。 これを誰かに知らせなければならないと思って。」

-事故の瞬間を撮ろうということでなく、救助方式の粗雑さを撮るために撮影したということですか?

「両方です。いったいあいつら(救助隊員)は何をしているのかと内心思いました。 一緒に子供たちを引き上げようと大声を上げる余裕もなくて、私はひとまず子供たちを引き上げていましたが複雑な思いでした。」

 キム氏は自身が撮った映像を見せてくれた。 黒いウェットスーツ(水に浮く潜水服)を着た救助隊員は、キム氏の頭の上の欄干を掴んで黙って立って、キム氏が子供たちを救っている状況を見ていた。 映像を見せたキム氏が話を続けた。

「消防署員が火災現場に到着すれば、人命を救助しに建物内に入るでしょう。 ところが救助隊員が船に乗っても船室の中に入らないのです。 これは職務遺棄ではないですか。 船に乗った海洋警察の救助隊員が、私や他の大人たちのように少なくとも船が完全に浸水する直前(30分間余り)まででも子供たちを引き上げていれば、少なくとも何十人かは助けられたはずなのに、何の装備もなしに船に乗って黙って見ているだけ…」

 キム氏は全南(チョンナム)珍島(チンド)の体育館で自身を訪ねてきた2か所の放送会社記者にこのような部分を指摘したと話した。 だが、どういうわけかキム氏のこの話(言葉)は電波に乗らなかった。

「本当に重要な(救助のための) 20分を無駄にしてしまったのです。 珍島管制センターでセウォル号がどんな状況なのかを把握するのに何十分も無駄にしてしまったし。 船が倒れているならば、すばやく20人でも50人でも救助隊員が早く来なければね。(遅まきながら到着した)救助隊員は、潜水可能な人々ではないのですか。 ところがなぜ到着するやいなや船内に入ろうとしなかったのか、私はそれが理解できません。 2・3階は私が行って見ることはできませんでしたが、4階には明らかに子供たちが多かったのに…」

セウォル号とともに沈んだが生還したある男子高校生

 30日基準で船の4階と5階から20余体の遺体が収拾された状態だ。 5階には乗務員用船室とVIP客室があって、高校生発見の可能性は低いと予想されたが、事故当時に水が上がって来ると高校生たちは5階に大挙移動したものと見られる。 海洋警察の救助隊が4階と5階に集まっていた高校生たちの救助にすぐに動いていたならば、もっと多くの生存者が出てきたかも知れない。 キム氏はインタビューの間、海洋警察救助隊を名指しして強い言葉で非難もした。

 「私がこういう話をするのは、海洋警察の救助隊が懲戒を受けることを願う気持ちのためではありません。 今度こうしたことが起きた時、同じ失敗が繰り返されないことを願うからです。」 海洋警察庁の説明によれば、潜水が可能な海洋警察官は4月30日基準で509人に過ぎない。 海洋警察122救助隊には潜水可能な海洋警察官が勤務している。 セウォル号事故現場に一番最初に到着した122救助隊は、別途の艦艇を持たず高速ゴムボートだけを運用している。 高速ゴムボートは救助隊基地から20km以上離れた海域には接近が容易でない。セウォル号の現場は救助隊基地から20km以上離れた地点だ。 海の真ん中で船体が沈没すれば、海洋警察が救助指揮の責任を負うのが正しいかも疑わしいほどの水準だが、政府は海洋警察のこのような状態をずっと続けてきた。

-撮った映像を見れば「オ-、水が入ってくる。大変なことになった。 皆死んだ」このように話されたそうですが。

「周囲の人々に船内に水が一杯になったとことを教えるために言った話です。 私は(客室と連結された5階の)出口側にいたので水に漬かったのが見えたが、他の人には見えないから。 水に漬かったのを見て当惑しました。 もうこれ以上は救出できなくて、無条件に逃げなければと直感的に思いました。 最後には船が90度倒れて、水が下(客室側)から上がって入ってきました。 ‘ざぁー’といいながら流れ込んで来ました。 暖かい室内に冷たい水が入ってくるので水蒸気も上がって。 子供たちの悲鳴も聞こえ。 とても心が痛みました。」

-最後にどのように脱出したんですか?

「5階客室の天井まで水が上がってくるのを見て、欄干を這って上がりました。 私も緊張をしていたのか、ズルズル滑ったりもしましたよ。 心は急いてもからだがついてきませんでした。 滑った時には瞬間、これで死ぬのかなと思いました。 船の欄干を掴んで、一番上に上がると漁船が外にいるのが見えました。船が水面下に沈む直前でした。 漁民は乗客が全員出てきたと思って、ちょうどセウォル号の横を離れようとしていたところでした。 ところが私が見えたのでまた戻って来ました。 漁船に乗るとすぐにセウォル号がひっくり返ってしまいました。 本当にあと少し遅れていたら私も死んでいたでしょう。」

-5階の客室から引き上げた子供たちはみな助かったのですか?

「引き上げた子供たちはみな助かりましたよ。 最後に男の子(檀園高の男子生徒)は死んで生き返りました。 緊張したのか客室から引き上げられた後、船の外に行かなければならないのに、足が凍りついて動けなかったんですよ。船(セウォル号)がひっくり返るまで漁船に乗り移れなかったんです。 セウォル号と一緒にそいつが海に沈んで行きました。 私はそいつが死んでしまうと思って、とても悲しんでいると沈んだ船のまわりで海の中から何かがぽこっと浮き上がってきました。 そいつでした。 ライフジャケットの浮力のために海から浮き上がってきたんでしょう。 (セウォル号の脇を離れた)漁船がとって返してそいつを海から引き上げて一緒に珍島に来ました。 そいつの両親が夜になって珍島体育館に来ました。 「この子が死んで生き返った子供です」と両親に言うと、両親が‘ありがとうございます’と数十回も言いました。」

-子供たちをそれ以上は救えずにセウォル号を去ったそうですが、最後に子供たちの顔を見ましたか?

「その子たちの顔を私が近くで見たならば‘おじさん、なぜ私を助けてくれなかったの’と言いながら悪夢に現れたでしょう。 遠くから子供たちを見ていたので、顔は思い出せません。 だけど、子供たちの様子は覚えています。 腕を抱えて縮こまっていた様子を。」

-どうしてそんな急迫した状況の中で、子供たちを助けなければならないと勇気を出したんですか?

「さあ、工事現場で仕事をたくさんしたので、普段から安全教育を何度も受けていました。 工事現場には安全管理だけを専門に担当する職員がいます。 墜落防止や火災待避などを担当するということですね。 結局、安全教育を長い間受けていたので、一般の人よりは急に悪化した状況の時の対応がちょっとは違うのでしょう。 極限状況に対して普段からいろいろ考えていました。 また、実際に難しい状況に置かれても、少しは落ち着いて行動するのが私の性格でもあって。」

「脱出するために廊下を歩いていると
子供たちが切なく呼んだのです。

目と目があって、初めての言葉が
‘生徒たちがたくさんいます、助けてください’
おびえて泣いている子供たちもいたし」

「工事現場で仕事をしてきたおかげで
普段から安全教育をたくさん受けていました
急迫した状況を普段からいろいろ考えていました
困難な状況でも落ち着いて行動する性格でもあったし」

船内でコーヒーを売っていた明るい表情のパク・ジヨンさん

-子供たちを救助していらしゃる時、船長と船員は全部逃げた後でした。 その事実を知っていらしたんですか?

「知らなかった。 後になって、船長と船員が先に脱出したという話を聞いて本当にけしからんと思いました。 船長も1年契約の非正規職で270万ウォンの月給を受ける身だったそうですね。どんな仕事でも、その人がやりがいと誇りを持つにはそれなりの処遇をすべきです。 義務感だけを要求するのではなく、誇りを持てるようにしなければならないということですね。 自分が社員として適切な処遇を受けてこそ、責任感を感じるでしょう。 清海鎮(チョンヘジン)海運が船員と船長の処遇や福祉にもっと気を遣っていなければなりません。」

-故パク・ジヨン氏のような乗務員9人は死亡したり行方不明になっています。(セウォル号の総乗組員は29人。 アルバイト生4人は乗務員名簿から脱落していて、後になって発見された。)

「パク・ジヨンさんって、子供たちにライフジャケットを譲って亡くなった乗務員でしょう? その人覚えています。 事故当日の朝、船で見ました。 船内でコーヒーを売っていました。 食事の配給時には、その方がご飯もくれてあらゆる雑事をすべてしていました。 それでも表情が本当に明るい人でした。 ネチズンたちが義死者に指定してくれと言っているようですが、そうなって欲しいですね。」

-船に積んだワゴン車はどうなったんですか?

「海に全部しずみました。 賠償を受けなければならないけど、今はそれを要求する時ではないようで…」

-船が転覆してからは生存者がただの1人も出てきません。 国民は救助システムがどうしてこんな水準なのかもどかしがっています。

「私は生存者がもう出てきはしないだろうと思いました。 船内に水がどのように上がるかを見た人ですからね。 エアポケットの話が出ていましたが、それは状況を正確に見れなかった人々が理論的に言う話です。 韓国の海上災難救助システムは本当に問題が深刻です。 事故初期の未熟な対応が決定的に災難を大きくしました。 乗務員が乗客をまともに待避させることもできなかったし、海洋警察の救助隊は出動していながら、船に進入することもできなかったし。 我が国がやっとこの程度だったかと思うと、本当にあきれるほどです。 救助システムさえきちんとできていたら、50~60人はもっと助かったと思います。」

-災難が迫った時、どのように行動しなければならないのか忠告があれば。

「当惑せざるをえないけれど、絶対に興奮せずに賢明に対処して欲しいと思います。」

-今回子供たちは落ち着いて行動したのですが。

「そうなんです。 大人たちが本当にとんでもない状況を作ったんです。」

英雄に映るかと思うと負担…悪性コメントに家族が傷ついている

 キム氏は言論インタビューの後、自身が英雄のように描かれるかと思うと負担になると語った。 言論がそれほど自身を美化することが負担に感じると話した。 キム氏が放送局に渡した映像には、キム氏の顔が一部写っていた。 時々、キム氏が笑っているような姿も映像に含まれていた。 そのまま放送電波に乗った。 一部のネチズンは「事故当時に笑う人がどこにいるか。 あんな人がどうして英雄か」と悪性コメントをした。

 キム氏と彼の家族は傷ついた。 キム氏は「今体験している状況があまりにあきれる状況で、私の人生はどうなってしまうのか、そんな気がして思わず苦笑いしたようだ」と話した。

 彼は悪性コメントというものを初めて経験した。 これ以上は言論インタビューをするまいと思ったが、気持ちを変えた理由について、初期の海洋警察救助隊員の粗末な対応を知らせたかったからだと話した。

 インタビューの途中、コーヒーショップの主人はキム氏の顔に気がついて、キム氏にオレンジジュースを無料で持ってきた。 コーヒーショップの主人は「キム氏のような人々がいて、それでも我が国がもっているようだ」と記者に話した。

 インタビューは夜10時を過ぎて終わった。 キム氏が近隣の宿舎に戻らなければならず、タクシー代を用意すると記者は話した。 記者がコーヒー代を計算している間にキム氏は先にコーヒーショップを出て行き、すぐに姿が見えなくなった。 キム氏に電話をかけると「今日はお疲れ様でした。 ありのまま正しい報道だけしてください」と話した。 西帰浦(ソギポ)海岸に吹く夜風は冷たかった。

ホ・ジェヒョン記者 catalunia@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/635539.html 韓国語原文入力:2014/05/03 18:18
訳J.S(11243字)

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