原文入力:2009-05-18午後07:18:42
‘最後の秘書’ ソン・ウジン先生 逝去
クォン・ヒョクチョル記者
←1948年4月19日午後6時45分、当時26歳の青年ソン・ウジン(左側写真左側)先生が白凡(中央)と白凡の長男キム・シン(右側)氏とともに木製の38度線立て札を背に立っている。単独政府樹立を控え分断を食い止めようと平壌で開かれる ‘全朝鮮政党,社会団体代表者連席会議’ 参加のため北行するこの写真は ‘白凡秘書’ ソン・ウジン先生の人生を象徴する場面となった。 <ハンギョレ>資料写真
43年光復軍入隊…白凡訪北・殺害現場に
“拳銃を持った安斗煕を警戒するべきだったのに” 回顧
白凡キム・グ先生に中国,重慶臨時政府時期から光復(解放)後逝去する時まで4年5ヶ月間そばで仕えた愛国の志士、ソン・ウジン(右側写真)先生が17日正午逝去した。 享年88.
ソン・ウジン先生は1948年4月19日白凡先生が単独政府樹立を食い止めようと南北交渉のために38度線を越え訪北した時に随行し、翌年6月白凡が安斗煕が撃った銃弾に倒れて亡くなる時も歴史の現場にいた。
平安北道,チョンジュに生まれたソンウ先生は40年満州で韓国人学生30人余りを集め抗日運動秘密結社組織を作り活動し、42年3月日帝警察に発覚するや逮捕直前に脱出し中国に渡っていった。以後、中国中央軍遊撃隊に入り抗日ゲリラ戦に参加し翌年3月には光復軍に入隊した。
先生は45年1月大韓民国臨時政府があった重慶で臨時政府主席金九先生に初めて会った。以後、光復軍総司令部に配属され臨時政府要人警護をする警衛隊員として活動する。光復(解放)をむかえ45年11月白凡と共に帰国した。米軍政庁が臨時政府要人らに政府代表ではなく個人の資格でだけ入国を許諾したために彼は白凡を迎えてはためく太極旗も、歓迎する人波の万歳の声もない金浦飛行場にさびしく降り立たなければならなかった。
白凡が逝去する時まで主席弁公室秘書として勤めた先生は、昨年12月<白凡先生と共に過した日々>(チェ・キヨン著・青い歴史編集)という回顧録を残した。
ソンウ先生は49年6月26日京橋荘で白凡を殺害した安斗煕が手に拳銃を持ったまま頭を下げて執務室があった2階から降りてくる場面も見守らなければならなかった。白凡を訪ねてきた砲兵少尉,安斗煕を2階執務室に案内した後に昼食を準備しようと地下食堂に降りて行き銃声に驚いて上がってきた瞬間だった。
回顧録で先生は「随行秘書として先生をきちんと守れなかったという、口では言い表せない罪悪感と恥を一生忘れずにいる」として「45口径拳銃を身に着けていた安斗煕になぜもう少し注意を注ぐことができなかったのか未だに恨めしい」と胸を痛めた。
遺族には夫人シン・チェヨン(78)氏と子息ヨプ,ファン氏,子女ミソン,ミラ,ミリョン氏など2男3女がいる。葬儀はソウル報勲病院,出棺は20日午前9時。 (02)2225-1444.
クォン・ヒョクチョル記者nura@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/obituary/355498.html 訳J.S