本文に移動

[ルポ] ‘焼身’イ・ナムジョン氏の痕跡を訪ねて

登録:2014-01-26 20:36 修正:2014-01-27 08:01
死ぬ前日に職員たちの月給を用意して
光州(クァンジュ)北区(プック)望月洞(マンウォルトン)丘墓地にあるイ・ナムジョン氏の墓。 昨年12月31日ソウル駅高架道路上で自ら命を絶ったイ・ナムジョン氏は自身が生きた光州に埋葬された。 ‘退陣’と書かれた黒い横断幕が彼の土墳を覆っている。

▲昨年12月31日ソウル駅高架道路で一人の男が焼身を試みました。急いで病院に運びましたが彼はついに亡くなりました。 平凡な労働者であった彼が、平凡でない方式で亡くなった理由は何だったのでしょう。 世明(セミョン)大ジャーナリズムスクール大学院が発行するオンライン新聞<トンビ(恵みの雨)ニュース>取材記者3人がハンギョレ土曜版と共にイ・ナムジュン氏が残した人生の軌跡を辿ってみました。

 ソウル中区(チュング)万里洞(マルリドン)と会賢洞(フェヒョンドン)を結ぶソウル駅高架道路は普段と何も変わりなかった。 表情のない道路は灰色であったし、その上をスピードを上げて行き来する車両には10日前の記憶は載っていなかった。 去る10日午後3時、高さ8mの高架道路下を行き来する市民たちは、分厚いコートをしっかり押さえていた。 零下9度の厳寒であった。

 昨年12月31日午後5時27分、故イ・ナムジョン氏は全羅道(チョルラド)光州(クァンジュ)から走らせた銀色のスターレックス レンタカーをソウル駅高架道路上に停めた。 1時の方向にソウル駅が、真下の10車線道路とバスレーン、タクシー乗り場などが一望に見下ろせる場所だった。 彼は横90㎝、縦690㎝の垂れ幕を橋の下へ垂らした。 赤い地に書かれた白の文字は鮮明だった。‘朴槿恵(パク・クネ)辞退’ ‘特検実施’。 彼は鎖で縛った自分のからだにガソリンをかけ、112に電話をかけた。 "示威でまもなく火災が起きるだろうから交通を統制してください。"

老母が部屋に貼っていた朴槿恵(パク・クネ)のポスター

 足もとには燃料としても使われるレンガ形のオガ炭が積まれていた。 一方の手にライターを握り "朴槿恵(パク・クネ)辞退" を叫んだナムジョン氏は、消防車のサイレン音が近づいてくると火を点けた。 あっという間に燃え上がった火は3分後に鎮火した。だが、すでに全身に3度の火傷を負った彼は、永登浦(ヨンドンポ)の漢江(ハンガン)聖心(ソンシム)病院で治療を受け翌日午前8時ついに亡くなった。 現場に残っていた遺書はこのように語っていた。

 ‘朴槿恵政府は銃刀なしで成し遂げた自由民主主義を語りながら、自由民主主義を転覆させたクーデター政府です。 (中略)すべての恐怖を燃やします。 恐怖は私が持っていきます。立ち上がってください。’

 ナムジョン氏が自身の最期をあらかじめ準備していたという事実は、現場で発見された遺留品を通じても知ることができた。 彼が乗ったスターレックス車両には、異なる太さの鎖が2本、レンガ形のオガ炭が満たされた箱、プラスチックやステンレス材質のケ結束リング、ロープなどが残されていた。

 死の一つの形式としての焼身は、一般的な自殺とは違う。 公開された場所で極端な方法で行われるという点でそうだ。 <自殺論>を書いたチョン・ジョンファン成均館(ソンギュングァン)大教授は 「焼身は一般的な自殺と異なり、公開された場所で‘現場’の多衆を意識しているために特殊で、高い致死率とその残酷性によりはるかに大きな外傷的経験と記憶を持たらす」と話した。 ‘焼身自殺の構造とメカニズムの研究’という論文を書いたイ・チャンオン聖公会(ソンゴンフェ)大研究教授は 「自身のからだに火をつけるという致命的な方法を取るという点で、焼身は強い熱望と目標を持っていると見られるが、これは単純な逃避や私的復讐心ではなく、利他性の強い動機を内包する死であり、同時に他人に向けた疎通を指向する行為でもある」と説明した。

ナムジョン氏がかろうじて集めた金を
兄が虚しく使い果たした時
兄は弟の顔を見られなかった
二日ぶりに家に戻った時
ナムジョン氏は普段と変わりなかった

"現時局にとても怒っていたそうだよ
‘それでも政治家なのか’と叱責するほど
ほとんど諦念して生きてきたが
問題意識はしっかり抱いて生きていたんだろう
人知れず、見えない所で"

 ナムジョン氏の人生は平凡だった。 1973年全南(チョンナム)順天(スンチョン)で生まれ光州(クァンジュ)で育ち、1991年朝鮮大英文科に入学した。 1996年に卒業して学士将校として任官して7年間服務した。その後、タクシー運転手をしながら検察公務員と7級公務員試験を準備したが失敗した。 最近はコンビニエンスストア マネジャーとして働いていた。 1991年、西江(ソガン)大屋上で "盧泰愚(ノ・テウ)政権退陣" を要求して焼身したキム・ギソル全国民族民主運動連合社会部長のように大衆運動組織に加担することもなかったし、2009年非正規職労働者の労働3権保障を叫んで自ら命を絶ったパク・ジョンテ氏(貨物連帯梁山支会所属)のように労働団体に加入することもなかった。 ナムジョン氏が歩いてきた人生の軌跡はよく知られた‘烈士’のそれとは異なる姿だったのだ。

 19日午後6時、光州(クァンジュ)北区(プック)にある42㎡(約13坪)のアパートで、ナムジョン氏の兄サンフン(43)氏が弟の遺品を整理していた。 兄弟はナムジョン氏が軍を除隊した2002年からこちらで2人きりで暮らしてきた。 玄関を入ればすぐに見える居間は大人4人が丸く座れば満杯になるこぢんまりした部屋だった。 壁には先日まで朴槿恵大統領の選挙公報ポスター写真が貼られていた。 老母が兄弟の意志とは関係なく「大統領にお仕えしなければならない」と言って貼っておいたものだった。 サンフン氏は弟を失った後、写真を剥がしてしまった。

 "ナム・ジョンがいないので洗濯物がたまっています。 私は脱いで置くだけで、洗濯は弟がすべてやっていました。 私は洗濯機の操作方法もよく知らないのに…"

 サンフン氏は寂しそうに笑って言った。 身長170㎝余りのがっしりした兄は弟と口元がそっくりだった。 ナムジョン氏が残した遺品は質素だった。 日記帳8冊、ダイアリーほどの切手収集アルバム、学生時代に活動した文学サークルで発刊した文集3冊、そしてファン・ジウ、ユ・ハ、パク・チョルなど当代有名詩人の詩集などだ。 兄は遺品の中から発見した弟の7年前の半名刺版写真を本人の黒い皮財布の中に大切にしまった。

 彼が弟の焼身の便りを初めて聞いたのは忘年会の席でであった。 レンタカーを借りて、垂れ幕を作るなど、ナムジョン氏がコツコツと最期を準備する間にも兄はおかしな気配を感じることはできなかった。 弟は心で思っていることを外にはあまり出さない性格だった。 政治の話はただの一度も交わしたことがない。 兄は弟が国民の前に残した遺書を読んで 「こんな文が書けるということを初めて知った」と話した。 兄の記憶の中の弟は "仏のような人" だった。

 "私が幼い時、事故をたくさん起こしました。 ナムジョンが永く軍生活して貯めたお金も、私が作った借金を返すためにほとんど使いました。 残ったお金は検察公務員試験を準備しながら生活費として使おうとしていましたが、その金まで私がねずみ講詐欺にあったせいで失ってしまいました。 それでも一度も怒ったりしませんでした。"

 弟がやっとの思いで貯めたお金を虚しく使い果たした時、サンフン氏はとうてい弟の顔を見られなかった。 二日後に家に戻った。 その時も弟は普段と同じように兄を迎えた。

 "率直に言って覚悟して家に帰りましたよ、私をののしって怒るだろうと。 ところが大丈夫だからと反対に私をなだめました。 こんな弟は世の中どこにもいないでしょう。 私が兄なのに、自分が兄のように私を見守ったのですから。 私は弟に頼って生きてきました。 そんな弟の心を痛めたこと、今になって後悔しています。"

ナムジョン氏の生前の姿。

彼が家で使っていた座卓には、教授であり文学評論家であるイ・ドンハのエッセイ集<独りで行く人は自由だ>一冊が置かれていた。 ‘独りで行く者は自身の意志を押し進める自由と、自分でなければ誰もができない意味あることをしているという意識の喜びをプレゼントとして受け取る’という内容を含んでいる。

死ぬ前日まで周りの人々を配慮していた

 淡々と弟を回想したサンフン氏の目からついに大粒の涙がこぼれた。 ナムジョン氏が知人に残した遺書の中には、兄に残した話もあった。 "兄さん、お幸せに" サンフン氏はこの短い言葉の中に弟の願望が感じられると話した。 優しい弟の心を痛めた自らに対する自責の念でもあった。

 光州(クァンジュ)北区(プック)龍頭洞(ヨンドゥドン)のあるコンビニエンスストアには40代の中年女性店員が独りで店を守っていた。 5車線道路の踏切のすぐそばに位置したこちらがナムジョン氏の最後の職場だ。 10坪程度の店舗は一般コンビニエンスストアと大きく変わらなかった。 彼は店員の勤務時間を調整することから月給の支払いまで店舗の全般的業務を仕切るマネジャーだった。

 「ナムジョン氏をご存じですか」と尋ねた。 店員は「よく知らない」として返事を避けたが 「本当に善人だった」として慎重に話し始めた。 彼女の記憶の中のナムジョン氏は若いアルバイト生にもきちんと敬語を使う程に礼儀正しい人だった。 アルバイト生も‘店長’というかたい呼称の代わりに‘叔父さん’と呼んで従った。 私費をはたいて碁盤と野球のボール、バット、グローブを買って置いておき、時間のあるたびにアルバイト生たちと楽しんだ。

 事件の前日である昨年12月30日にはナムジョン氏からちょっとおかしな連絡を受けもした。 店の金庫の中に月給を入れて置いたとのことだった。 本来の支給日より半月も前だった。 彼は「年末だから早く精算したのかと思ったが、自身がそのようにすることを知って、人には被害を与えないようあらかじめ月給を支払ったようだ」と話した。 ナムジョン氏は他の職員と交代する時は、公示事項や引き継ぎする内容を几帳面にメモしておいたりしたが、仕事をする人々が困らないように配慮したのだった。

 ナムジョン氏がソウル駅高架道路上にいた時刻、店員は交代勤務をする筈の彼を待っていた。 30分過ぎても現れない彼に数回電話をかけたが、連絡はつかなかった。 翌日コンビニエンスストアの本社から焼身の事実を聞いた。 彼は「普段政治の話をしたこともなく、物静かな人だった。 焼身した人が自分の知っている人と同一人物なのか、未だに分からない」と話した。

 ‘民主闘士 故ナムジョン烈士の意を受け継いで、ストライキ闘争に勝利します。’光州(クァンジュ)東区(トング)朝鮮大学校では正門を入るとすぐに謹弔 横断幕が目に入った。 この大学に英文科91年度入学生として入学したナムジョン氏は文学サークルで詩を書いて‘焼身政局’を発表した。 卒業した後にも後輩の詩画展に賛助詩を送る程に創作活動を怠らなかった。学生時代の文集には色鉛筆でアンダーラインを引いて円を描いて互いの詩を分析した跡も残っている。 余白には‘詩想展開’ ‘緊張感’等と書かれていた。 学生会や団体に加入して学生運動に飛び込みはしなかったが、彼がニューフェース時期に書いた日記の中には時局に対する真剣な熟慮の痕が残っている。

日記帳に書いた "これは資本主義ではないさ"

 ‘富の不均衡と労働に対する不当な代価…。これは資本主義ではないさ。 富の均衡、労働に対する正当な代価、これが資本主義、民主社会なのに。 (中略)それでも国家の統制の中で平等を成し遂げるといういわゆる社会主義、それもね。 なぜだか分からないが、これが正しいようには思えない。 資本主義の中でも国家の福祉政策によって真の福祉資本主義社会を作ることができるはずなのに。’と後輩イム・ウンジョン(39・女)氏はナムジョン氏を "純粋な人だった" と記憶する。 ナムジョン氏は共に学報社で活動して学生運動に飛び込んだイム氏の支持者でもあった。 学報社の記者は偏向した見解を持ってはならないと注文しもした。 彼女は焼身という極端な選択をしたことは信じられないが、その一方では「ナムジョン先輩ならばそのようなこともあるかもと思った」と伝えた。

 "ナムジョン先輩の消息を聞いて自分が恥ずかしくなりました。私は大学時期に騒がしくスローガンを叫んでいたのに、今は生業に従事しながら現実に順応して生きています。 最近までナムジョン先輩に会っていた友人の話によれば、先輩は現時局に対してとても怒っていたそうです。 周辺に‘お前が政治家か’と叱るほどです。 私たちは世の中がみなそうだったのではないかと諦めて生きているが、純粋なナムジョン先輩の目には現在の状況が耐えがたい問題として映ったのではないかと思います。 問題意識をずっと大切に抱えて生きていたのでしょう。 見えない所で。"

 14日正午に訪ねた光州(クァンジュ)北区(プック)望月洞(マンウォルトン)丘墓地でナムジョン氏の墓を探すことは難しくなかった。 ‘退陣’と書かれた黒い垂れ幕が彼の墳墓を覆っていたし、黄色が褪せた菊の花がふとんのように覆っていた。 10日前に置かれたかすみ草は色が変わっていなかった。 周辺の墓石には‘朴槿恵政権退陣’と書かれた赤い鉢巻きが巻かれていた。 丘墓地は1980~90年代に民主化デモや労働運動の中で亡くなった人々が安置されたところだ。 1987年警察の催涙弾に直撃され亡くなった延世(ヨンセ)大のイ・ハニョル氏もここに眠っている。

 チョン・ヒゴン光州広域市教育委員は光州西江高で社会科教師として在職して、1989年に解職された。 ナムジョン氏が2年に在学中の年であった。 チョン教育委員は故人の死を注意深く推測した。 「ナムジョンは光州の‘真実’が明らかになり始めた1980年代後半に疾風怒涛の時期を過ごし、1991年焼身政局の中で大学初年度を過ごしました。 学生運動に直接飛び込みはしなかったが、周辺で多くの話を見聞きしたことでしょう。 意識の底辺にはそのような経験が位置していて、人生に影響を与えたのではないかと思います。」 まだ遺品が整理されていない彼の部屋の座卓には一冊の本が置かれていた。 教授であり文学評論家であるイ・ドンハのエッセイ集<独りで行く人は自由だ>であった。 独りで行く者は誰の表情も伺わずに自身の意志を押し進める自由と、自分でなければ誰にもできない意味あることをしているという意識の喜びをプレゼントとして受け取る。 エッセイ集の中の一節だ。

ソン・チウン、パク・セラ、パク・チェリン/トンビ(恵みの雨)ニュース記者

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/621330.html 韓国語原文入力:2014/01/26 11:11
訳J.S(6255字)

関連記事