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日本将校出身 独裁者の最後の7年

登録:2014-01-19 22:02 修正:2014-01-20 08:18
チョン・テイルの炎で始まった維新
産業化の真の主役は労働者
キム・ジェギュの‘挙事’因果関係
朴正熙. 写真ハンギョレ出版提供
維新-唯ひとりのための時代 ハン・ホング著 ハンギョレ出版・2万ウォン

 この本は18年間も執権し韓国現代史を壟断した、そしてその後半では選挙手続きのような表皮的民主主義にさえ耐えられなかったのか、憲政を破壊して人権と人命を圧殺して‘終身大統領’になろうと思った、ある日本軍将校出身独裁者の最後の7年を扱う。 朴正熙(写真)。ただその一人のための時代、‘維新’時代だ。

 ハン・ホング聖公会(ソンゴンフェ)大教授の<維新>は、10代で維新を、20代でその後えいである全斗煥・盧泰愚新軍部統治を体験したが、その時代をきっちり清算できない、いわゆる民主化運動世代に属した歴史学者が20~30代の若い世代に伝える "申し訳なさ" であり、 "維新のからだと光州(クァンジュ)の心を持つ" その世代の1人として、今日も韓国社会を徘徊している維新の亡霊を取り払おうと同世代と後世代に訴える手紙だ。

 <米国民衆史>を書いたハワード・ジンが‘走る汽車の上に中立はない’と言ったように、<維新>を執筆したハン・ホング教授も歴史評価に中立は不可能だと信じる。 維新体制は韓国の1970年代を強打した。 誰かにとっては70年代は京釜(キョンブ)高速道路の開通で始まるが、また誰かにとっては平和市場で火に包まれたチョン・テイルの炎で始まる。 <維新>は「勤労基準法を守れ」と叫んだチョン・テイルの炎の中で維新を眺める。 その後えいである労働者、そして70年代を終え1980年代と87年体制を切り拓いた5月の光州(クァンジュ)の子供たちの目だ。

 朴正熙は韓国憲政史で二度のクーデターを敢行した。 4月革命の結実でできた政府を転覆させた1961年‘5・16軍事反乱’と1972年10月17日執権12年目の大統領身分で行った‘親衛クーデター’だ。 非常戒厳宣言で始まったその親衛クーデターは "一大維新的改革が必要" だとして、韓半島内外の危機状況を名分として掲げたが、朴正熙時代を擁護する‘保守’論客チョ・カプジェ氏でさえも "なぜこんな途方もない措置を取らなくてはならなかったかに対する納得できる説明はない" と語った。 当時、米国も日本もニクソンの中共訪問と日本・中共修交を動機のように叙述した部分を削除してほしいと要求したほどだ。 維新は改革ではなく終身執権のための体制であった。

 維新体制の精神的根源である日本の明治維新と、その70年後の1936年に起きた昭和維新(天皇親政を名分としたクーデター)だ。 朝鮮侵略の張本人 伊藤博文、征韓論を展開した西郷隆盛など、いわゆる‘明治維新の志士’が "朴正熙のロールモデル" だった。 "維新体制下の韓国社会と自然に重なるのは‘天皇に対するいかなる不敬な言動も容認せず、朝鮮独立と日帝敗戦を口にする行為自体を重罪とした日帝末期の軍国主義統治’であった。" ハン教授は朴正熙元大統領を‘祖国近代化、産業化の父’と持ち上げる人々に、この地の産業化、民主化の真の主役は "‘コンスニ(女子工員)’という名で差別と蔑視を受けた女性労働者" だと反論する。 清渓川(チョンゲチョン)平和市場で南営(ナミョン)ナイロン・元豊毛紡・東一紡績・半島商社に至るまで女性労働者は1970年代民主労組闘争を先導した。 そうして、79年8月YH女性労働者の闘争は22才キム・ギョンスク氏の死亡と共に政局を揺り動かし朴正熙の死(10・26)を持たらす連鎖反応の序曲になった。 民主化・産業化の主役は "朴正熙でも、幾人かの名前が知られた民主化運動家でもなかった。" "女性労働者こそが長時間労働で最底辺で産業化を成し遂げた担い手であり、その強固な維新独裁を押し倒した民主化の先鋒だ。"

 このように、人民革命党再建委・民青学連事件、金大中拉致事件、自由言論実践宣言、釜山(プサン)馬山(マサン)抗争、南民戦事件のように維新体制が表わしたり維新の没落を催促した‘代表的’事件に対する照明だけでなく、その時期に相対的にきちんと照明されえなかった歴史的脈絡をぐさりと突きながら再評価を促すことがこの本の光り輝く部分だ。

 ハン教授は1970年代を‘祖国近代化’というよりは‘祖国軍隊化’の脈絡で把握する。 その兵営化された体制のために維新政権は学校を予備軍隊化(学徒護国団、教練)とベトナム戦争を活用して兵役忌避ゼロを追求した。 本は良心的兵役拒否で祖国軍隊化に抵抗したエホバの証人に加えられた無差別暴力事態を証言する一方で、イラク戦9年間の米軍死亡者が約4500人である反面、朴正熙執権18年間で約3万4000人、維新7年だけでも1万1000人余りが軍で命を失ったことを想起させる。

 ハン教授の特徴は具体的な‘事実’を踏み台にして、維新宣言の1年半前から進行された維新準備工作‘豊年事業’から79年 "野獣の心情で維新の心臓を撃った" と言ったキム・ジェギュの‘10・26挙事’で維新が幕を下ろすまで、その因果関係が明瞭にあらわれるように事件の展開過程を文学的筆致でさらさらと書き下す点だ。 73年ユン・ピルヨン事件で後日キム・ジェギュをはじめとする維新後期の主役が生まれる脈絡が、南民戦‘摘発’の功を警察に奪われたうえに、釜山馬山抗争への対応を巡りキム・ジェギュが朴正熙に憎まれながら、しばらくして‘挙事’に進む因果関係が明らかになる。 維新の血縁的、理念的子孫が執権した今日、維新の亡霊は繰り返されている。 79年維新政権は金泳三新民党総裁の総裁権限を停止させ、国会から彼を除名した。 朴槿恵(パク・クネ)政府とセヌリ党は、統合進歩党解散審判請求に続き朴大統領を辛らつに批判したチャン・ハナ、ヤン・スンジョ議員の除名を推進した。 <維新>はこれを "セヌリ党議員のしていることは1979年10月ユ・ジョンフェ議員の形態にぴたりと重なる" と記録する。

ホ・ミギョン記者 carmen@hani.co.kr、写真 ハンギョレ出版提供

https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/620449.html 韓国語原文入力:2014/01/19 20:11
訳J.S(2648字)

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