朴槿恵(パク・クネ)大統領が5日、大統領府秘書室を電撃改編した。 ホ・テヨル室長を更迭してキム・ギチュン元法務部長官を新室長に任命した。 パク・ジュンウ前ヨーロッパ連合大使を政務首席、ホン・ギョンシク前ソウル高検長を民政首席、ユン・チャンバン前ハナロテレコム代表理事を未来戦略首席、チェ・ウォンヨン前保健福祉部次官を雇用福祉首席秘書官に任命した。
人事の焦点は断然キム・ギチュン室長だ。 朴大統領が休暇地の砂浜に‘猪島(チョド)の追憶’と書いてから1週間ぶりだ。 自身だけでなく父親の朴正熙元大統領とも縁が深い旧時代人物を抜てきしたという点で、政界も学界も衝撃として受けとめている。 ハン・ホング聖公会(ソンゴンフェ)大教授(現代史)は「キム・ギチュン室長は正修奨学会、維新、スパイ捏造、地域感情などあらゆる否定的な要素の化身と見ることができる人物だ。 朴大統領が歴史を逆に戻すと宣言したも同然だ。 反歴史的人事だ」と評価した。
慶南(キョンナム)高とソウル大法科を出たエリート検事出身であるキム室長の一生は屈曲した我が国の歴史と密接な関連がある。 彼は1958年ソウル大法科に入り、5・16クーデターの直前である60年10月に高等考試司法科(司法試験)に合格した。 その後5・16奨学会(正修奨学会の前身)が支給する奨学金を受けて学業を終えた。 その縁で彼は後に正修奨学会奨学生出身の集いである常青会会長を務めもした。
キム室長は1972年法務部検事時期に維新憲法草案作成に参加した。 1974年からは中央情報部で対共捜査局部長、中央情報部長秘書官、対共捜査局長を務めた。 彼が在任中、中央情報部は在日同胞スパイ集団をはじめとして多くの捏造スパイ事件を作り出した。 部長秘書官だった1974年8月、朴元大統領夫人の陸英修氏狙撃容疑者ムン・セグァンに「<ジャッカルの日>を読んだか」と質問を投じて口を開けさせた武勇談は彼の自慢だ。 彼は朴正熙政権末期に大統領府秘書官も務めた。
キム室長は中央情報部捜査局長だった1978年‘1・19措置’を起案し、保安司の民間人査察を中断させたことがある。 前方師団で大隊長が北に行った事件を契機に保安司の権限を縮小させたのだ。 そのために80年に入ってからは一時保安司出身の新軍部実力者に牽制されもした。 しかし峠を越えた彼はその後、常勝疾走した。 盧泰愚政権で法務研修院長、検察総長になり、1991年5月から1992年10月まで法務部長官を務めた。 この時期、彼の部下は彼に‘ミスター法秩序’というニックネームを上納した。
大統領選挙を目前に控えた1992年12月11日、前職法務部長官だった彼は釜山地域の機関長を呼び集めて、金泳三候補の勝利のために地域感情を呼び起こさなければなければならないと提案した。 いわゆる‘チョウォン河豚汁店事件’だ。 逆説的に政権の誕生に大きく寄与した彼は、1996年巨済(コジェ)で新韓国党から公認を受け、連続3選を果たした。 2004年国会法司委員長時期には、盧武鉉当時大統領に対する弾劾訴追意見書を作成し憲法裁判所に提出した。
朴槿恵(パク・クネ)大統領との公式な縁は2005年7月に始まった。 ハンナラ党代表であった朴大統領は、彼を汝矣島(ヨイド)研究所長に抜てきした。 2007年には競選キャンプで法律支援団長として活躍した。 縁はより一層深まった。 キム室長は元老会‘7人会議’のメンバーだ。 また、去る7月1日には朴正熙記念事業会の初代理事長を務めた。
歴史的観点以外にも今回の人事には大きな問題がある。 朴大統領が公と私の領域を混同し始めたということだ。 与党のある要人は「キム室長は年上だが、大統領の好みにぴったり合わせて報告すると承知している。 マナーが洗練されていて声を荒げることもない」と褒め称えた。 また別の要人は「2007年大統領選挙を控えて朴大統領が代表を辞めて家で休んでいるのにキム・ギチュン室長の提案で何人かを呼び集めて一緒に‘忠武マリーナ’に遊びに行ったことがある。 どのように説得をしたのか本当に不思議だった」と回顧した。
朴槿恵大統領とキム・ギチュン室長をどちらもよく知っている要人は匿名を前提にこういう話をした。
"如何せん大統領の意識が1970年代の幼い時期に留まっているようだ。 大統領府秘書室長は大統領個人の参謀ではなく重要な公職者だ。 国民が常識的に納得できる人でなければならない。 キム室長は腐敗した人ではないが、国家運営の大きな幹を導いて行くことができる知恵や識見は不足している。 何よりも大統領が誤った方向に行く時にそれはいけないと阻み立てる正直さがない。 ‘大統領の心中だけを慮る秘書室長’と‘政治を全く知らない政務首席’を座らせたことを見れば、朴槿恵大統領府に参謀は必要ないということだ。 非常に心配だ。"
ソン・ハンヨン先任記者 shy99@hani.co.kr