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[土曜版]ハン・ホングの維新と今日17>女工哀史(上)

登録:2012-11-03 08:58 修正:2012-11-03 11:40
3番シタ(訳注:下働き)と5番ミシンの名前は何だったか
1970年代、平和市場の女工たち。 これらの人々は一日15時間のつらい労働により最底辺で産業化を成し遂げた担い手だった。 <3人の異邦人のソウル回想:ディルクシャから清渓川(チョンゲチョン)まで>

 20世紀後半、韓国は産業化と民主化という2つの領域で注目すべき成果を上げた。 保守陣営の一部では‘産業化勢力’という言葉で自分たちを包装しつつ民主化も産業化されたがゆえに可能だったという呆れた主張をしたりもしている。 また、一部では朴正熙を産業化の父、祖国近代化の父と持ち上げたりもしている。 果たしてこの地の民主化と産業化は誰が成し遂げたのだろうか。 民主化と産業化の両課題で本当に核心的な役割を遂行しながらも、主役としての接待を受けられない人々は労働者、特に‘女工’という名で差別と蔑視を受けた女性労働者たちだ。 彼女たちこそ長時間のつらい労働により最底辺で産業化を成し遂げた担い手であり、その頑強だった維新独裁を押し倒した民主化の先鋒だ。

祖国近代化という美名は
女性たちを皆ソウルに連れてきて
金を稼いで弟に勉強させて
良いところに嫁入りする堅実な夢を抱いて
シン・スネとイ・チョンガク、チャン・ナムス氏は
縫製工場の‘女工’になった

低賃金と差別と蔑視の中で
互いに抱き合って泣いた彼女たちは
70年代労働運動の主役だった
朴正熙政権は勤労基準法を
犯した者を取り締まるのではなく
守れという者を捕えて行った

1931年5月29日、賃金を削るなという49人のストライキ団の代表として築台の上の楼閣、乙密台に登った女性労働者カン・ジュリョン。 楼閣の後方は12メートルの断崖絶壁だった。 <ハンギョレ>資料写真

カン・ジュリョンの乙密台、キム・ジンスクのクレーン

 資本主義化を体験したすべての国にはそれぞれ悲しく哀しい女工哀史が伝えられている。 儒教的家父長制の遺産に植民地支配と戦争と圧縮的近代化を体験した韓国の女性労働者は、悲しさにかけては他のどこの国の姉妹より一層悲しい話が多いが、他の国の女工哀史には珍しい輝く瞬間を持っている。 1970年代、労働運動の主役は女性労働者であった。 長期にわたる軍事独裁で1970年代のように労働運動内での性比が女性側に集中した時期は他にない。 多くの研究者はなぜ女性たちがそのように熱心に闘争したかを糾明するために努力したし、相当な研究成果を上げた。 今ここでその研究成果を検討して評価する余裕はないが、私は重要な質問が一つ抜けている点をいつも残念に思っている。 矛盾が存在する時、人々が闘争に立ち上がるのは当然のことだ。 1970年代はなぜ女性労働者が闘争に立ち上がったかを尋ねるよりは、なぜその時、男性労働者が闘争に立ち上がらなかったかを糾明しなければならない。

 女性労働者は1970年代を通じて労働運動の責任を負ったし、大学生でさえろくにデモをすることもできなかった維新の最後の瞬間に、YH事件を通じて鉄壁に見えた朴正熙政権が崩れる端緒を切り開いた。 あまりにも頑丈だったために小さな衝撃をも吸収する余地がなくてこわれてしまった朴正熙政権とは裏腹に、その時期の女性労働者は限りなく弱かったために、むしろ無限に強くなることができた。 彼らは貧しく、学べず、哀れな下働きに留まらずに互いに抱き合い悟らせて堂々とした人間として、立派な労働者として立ち上がった。 極めて稀には英雄化されたりもしたが、多くの場合には不当に低評価されたり意図的に無視されてきた女性労働者の話は維新時代を全て理解するためにも、非正規職がしょげることなく今日を生きるためにも、必ず正しく記憶されなければならない。 この頃、経済民主化スローガンが騒がしいが、労働が脱落した経済民主化がなぜ詐欺にならざるをえないかを明確にするために数回にかけて維新時代の女性労働者の暮らしと闘争を見て回る。

 大恐慌の余波が続いていた1931年5月29日、カン・ジュリョンという女性労働者が粗織りの木綿一枚をからだにまとい、平壌(ピョンヤン)乙密台に上がった。 楼閣の後方は12メートルの断崖絶壁だが、前面は座り込みを見物する中学生の頭が写真に写ってしまうほどの普通の2階の高さた。 カン・ジュリョンは賃金を上げてほしいということではなく、削らないでくれと断食闘争を始めた49人のストライキ団の代表であった。 自分一人の賃金が削られることを、49人のストライキ団員の賃金が削られることを防ごうとして望楼に上がったわけではなかった。自分の賃金削減は平壌のゴム工場労働者2300人の賃金削減につながることであり、結局は朝鮮八道全体の労働者の賃金削減につながる筈なので、カン・ジュリョンは死を覚悟して望楼に上がった。 カン・ジュリョンは長くは持ちこたえられなかった。 座り込み開始から8時間後には後方からこっそりと接近した警察官にカン・ジュリョンを押されてしまい、下に拡げておいた網に落ちて気絶したカン・ジュリョンを捕まえて行った。 僅か2階の高さで単に8時間持ちこたえただけだが、朝鮮八道がどよめいた。 どうして女性の身であの高いところに上がって、他の労働者の利益のために戦うのを黙って見ていられるかと人々が力を寄せ合って賃金引下げを阻止した。

 カン・ジュリョンが行った最初の高空籠城は今から80余年前のことだ。 韓国経済が比較にならないほど発展する間に、カン・ジュリョンの孫娘たちはその時期とは比較にならないほどさらに高くさらに遠くへ登って、さらに永く持ちこたえなければならなくなった。 キム・ジンスクははるか40メートル上の85号クレーンに上がって300日も持ちこたえなければならなかった。 チユル僧侶の100日断食以後、20日のハンスト程度ではその数多いインターネット新聞にも記事1行すら載るのは難しい。 初めて元山全面ストライキを勉強した大学院時期、‘どうして1ヶ月もの間ストライキを継続できたのだろう’と皆が不思議に思ったのは数日前のことのようだが、コーロン亀尾工場では8年、コルト コルテクと才能教育は6年越しで戦っている。 最近は1年程度戦ったからと長期闘争事業場ですと名刺も差し出せなくなった。

 カン・ジュリョンが乙密台の屋根に這い上がった時期、植民地朝鮮の女性労働者は男性労働者の賃金の半分を受け取っていた。 男性労働者の賃金は日本人男性労働者賃金の半分で、日本人女性労働者の賃金と殆ど同じだった。 少年労働者は成人労働者賃金のまた半分だった。 幼い朝鮮人女工は日本人成人女工の4分の1の賃金を受け取った。 第2次大戦の敗戦により韓半島から退いた日本が20余年後に朴正熙の引導で戻ってきて、馬山(マサン)輸出自由地域に工場を作った時、わが国の幼い女工が受け取った賃金は、日本成人女性労働者の賃金の6分の1に過ぎなかった。 この女工たちの末の息子・娘たちよりも幼い88万ウォン世代は、5年前に初めて名付けられた当時の88万ウォンよりはるかに少ない賃金で働かざるをえない境遇に置かれている。 彼らにとって解放とは何で、祖国近代化はまた何で、民主化は何だったのだろうか。

東一紡織の女工と平和市場の女工の間

 1969年パティ金が発表した‘ソウル賛歌’は「美しいソウルで、ソウルで暮らしま~しょう」と力強く歌った。 水が良かったおかげなのか、炎天で農作業をしないおかげなのか、名節でソウルから贈り物を山のように抱えて地方に下ってきた地元の姉さんや友人の顔は見違えるように白くなっていた。 誰も彼もがソウルへ行きたいと思った。 鐘が鳴り花が咲き、鳥は歌い人々は笑う所、ソウル。 結末を良く知っているマスコミは‘無鉄砲な上京’と呼んだが、ソウルに憧れた夢多き田舎の女の子たちは3~4年熱心に仕事をして弟に勉強させて、お金を貯めて良い所に嫁入りするという堅実な計画を胸中に皆が立てていた。 必ずしも赤貧の娘たちばかりではなかった。‘祖国近代化’という怪物は、田舎娘と、まだ娘とも呼べないほどに幼い少女さえ、もはや残っていなくなるまで農村から結婚前の若い女性たちを引き抜いて行った。

 清渓(チョンゲ)市場の女工の体験を修士論文<13歳女工の人生>に書いた私の姉のような弟子シン・スネは、全く同じように見える女工の人生も家の経済力差により出発ラインが違ったと証言する。 東一紡織は「便を食べて生きることはできない」というすさまじい叫びで人々の胸に刻印されているが、事実そこに入ることは空の星を取るほど難しいことだった。 そういうところに入るには最低でも高等学校に入っていなければならなかったし、短くて6ヶ月、長ければ1年は管理者の家で無料で女中暮らしをしなければならなかった。 後に東一紡織労組委員長になったイ・チョンガクは先に入社した姉のおかげで長く待たなかったは、管理者に美味しいことで有名な延坪島(ヨンピョンド)のイシモチ一連を与えなければならなかった。 学歴もよくなく、イシモチ一連の‘賄賂’にも事欠くありさまで、何ヶ月も無料女中奉公をすれば直ちに両親の薬代や弟の学費を賄わなければならなかった人々は小規模業者や縫製工場の門を叩いた。 シン・スネはイ・チョンガクのようにイシモチ一連を捧げるほど暮らし向きが良くなくて平和市場に行ったが、それでも家族が一緒にソウルにきて寝る所はあった。 シン・スネはホコリに覆われた平和市場の小部屋で働き、栄養失調の上に結核にまでかかったが、一人で上京して月収○○○○ウォンに寝食提供という広告に惹かれて酒場に流れたポクスンはそのようなシン・スネを羨んだ。

 奥様と女子大生たちにはどうだったかは分からないが、田舎から上がってきたばかりの10代の女工たちにとって、ソウルは決して鐘が鳴り花が咲く美しいところではなかった。 彼らの虚しい期待がこわれるまでに長くはかからなかった。 田舎で生活状況がそれでも悪くなかった家の娘たちは、ソウル生活を一層辛く感じた。 必ずしも余裕のある娘たちだけがそうだったわけでもなかった。 田舎にはいくら貧しくともトイレのない家はなく、いくらみすぼらしくとも家には床も土間もあった。 ソウルのトイレはきれいな水がチョロチョロ出てくると聞いたが、貧民街や川辺のバラックの粗末な家にはトイレすらろくになかった。 借間にトイレがあっても主人一家に優先権があって、痛む腹を抱えて耐えなければならなかった。

 当時幼い女工たちが経験した勤労条件は私のようにソウルの裕福な家で育った人が描写できる領域を抜け出していた。 どれほどだったならチョン・テイルが自身のからだに火をつけただろうか。 その時期にも勤労基準法はあったし、チョン・テイルは「勤労基準法を制定しなさい」ではなく「勤労基準法を守りなさい」と大声を張り上げた。 守らずに、いや初めから守るつもりもなしに作ったからなのか当時の勤労基準法の内容はかなり良かった。 労働組合法、労働争議調停法、勤労基準法など労働3法は韓国戦争中の1953年初めにそれこそあっという間に作られた。 国連参戦国は民主主義を守るという名目で韓国に派兵したが、各国の野党や労働運動界では労働3法もない韓国に守らなければならない民主主義がどこにあるかとして軍の撤収を主張したり援助を削減しろと騒いだ。 急に法を作るに当たって韓国は世界で最も先進的だった日本の労働法を書き写した。 米軍最高司令部は日本で軍国主義の復活を阻むには労働運動が本来の役割を果たすべきだと見て、自国でも資本家の圧力のために反映できなかった条項を労働法にたくさん取り入れたのだ。 法はかなり良かったが、政権は法を守らない者を取り締まったわけでなく、法を守れと主張する者をアカだとして捕えて行った。 1973年に労働庁を作り庁長には毎回治安局長出身(チェ・トヨル、チェ・ソクウォン)を任命したことを見ただけでも維新政権が労働問題をどんな視角で眺めていたかを知ることが出来る。

工場食堂はなぜ汁と水を与えないのか

 よく1970年代を代表する闘争が燃え広がった東一紡織や元豊毛紡が労働条件が劣悪だったと考えがちだが事情は正反対だった。 こうしたところで民主労組が結成されて闘争が燃え広がったことは労働環境が劣悪だからでなく勤労条件が良かったためにそれなりに可能だったと当時の闘士は口をそろえる。 私のまた別の姉のような弟子チャン・ナムス長男数の労働手記<奪われた仕事場>には彼女が捕えられ拘置所に閉じ込められた話が出てくる。 当時、チャン・ナムスは勤労条件が最も良いと噂になった元豊毛紡ぼ寄宿舎に住んでいたが、拘置所で食べるご飯が寄宿舎の食堂で食べるご飯よりはるかに良かったと言う。 シン・スネも刑務所に行って生まれて初めてゴボウやレンコンのようなおかずを食べたと言う。 シン・スネは家族にはちょっと申し訳なかったが、刑務所では思い切り寝られたし、時間になればご飯もくれて色々と気楽だったと言う。 その上、拘置所は汁もくれて水もくれた。 国民教育憲章の教えのとおり、能率を最高に崇めたてた時期、工場食堂では労働者がトイレに行き来すれば能率が下がるからと汁や水をあまり与えなかったので、労働者たちはモグモグとご飯を食べなければならなかった。 一日15時間死ねとばかりに働いても囚人より劣る生活をしなければならない労働者の境遇は本当に悲しかった。 朴正熙は労働者の貧困が熱心に仕事をしなかったせいだとし、勤勉、自嘲、協同の精神を強調したが、その時も今も朝一番の始発に乗って仕事に出て行くのは最も貧しい人々だ。

 国家は稀には輸出の日のような時に、労働者を産業戦士とか産業の担い手だとか言って持ち上げもしたが、国家も資本も社会も式典が終れば労働者を‘コンドリ(工員)・コンスニ(女工)’と言って接した。 多くの労働者は貧困も、差別も全て運命のせいとして聞き流したが、一部はこの差別に対して敏感に反応した。 労働運動に立ち上がった人々は劣悪な勤労条件と低賃金も辛かったが、最も耐え難い部分は差別と非人間的な待遇だったと口をそろえる。 同じようにデモに行って捕えられても、大学生と無知な女工とでは差別を受けた。 学生たちは少し前に行ったばかりでもトイレに行くと言えば簡単に行けたが、労働者には「このアマ!我慢しろ」という罵りだけが帰ってきた。 女工に対する、弱者に対する差別は労働者の間にも存在した。 社会は両親がくれるお金でバスに乗る学生たちには回数券を作り半額で乗せたガ、低賃金でバス代を払わなければならない同じ年頃の工員・女工には回数券を許さなかった。 同じく学校に進学できずに無念な負け組だったが、バスの案内嬢は日曜日にも労働者が回数券を差し出すと鋭く察知し学生証を見せろと言った。 資本はいつも裁断師がミシン士を、ミシン士がミシン補助を、ミシン補助がシタを苛めるように仕向けて生産目標を達成した。 それでも軍隊と違うのは担任は班長を叱りつけ、班長は助長を叱りつけ、助長はまた幼い女工を叱りつけながらも互いに抱き合い泣くこともあったという。 こういう素朴な姉妹愛、兄弟愛が労働運動の基礎であった。

 シン・スネは‘中等授業無料’という印刷物を見て訪ねて行った労働教室で、いつか社長が「チンピラが死んで、かますで覆ってあるので陸橋の下には行くな」と言った話の主人公がチョン・テイルであることを初めて知った。 長時間つらい労働を終えて勉強することはしんどかったが、ここだけは彼女を‘7番シタ’ではなくシン・スネという名前で呼んでくれた。 7番シタのシン・スネは2年半にわたり一緒に仕事をした7番ミシン姉さんの名前を知らない。 いつも3番シタ、5番ミシン姉さんという風に呼んでいたので名前を知る術がなかった。 同じ年頃の青少年は「私が彼女の名前を呼んであげた時、彼女は私のところに来て花になった」を本で習ったが、今は非正規職の母親になったその当時の女工たちはその詩を労働組合や夜学で体験的に直接書いた。 <次週に続く>

ハン・ホング(韓洪九)は おもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

https://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/558787.html 韓国語原文入力:2012/11/02 21:17
訳J.S(6747字)

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