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韓国が憶えている総督府官吏の娘「田内千鶴子」

原文入力:2012/05/24 17:17(1415字)

木浦で「孤児のお母さん」と呼ばれた日本人
誕生100周年にあたり、韓日両国で記念行事


←尹鶴子(ユン・ハクジャ)さん(日本名 田内千鶴子 1912~68)

日帝強制占領期間中に朝鮮総督府の下級官吏の娘として韓国へ来た田内千鶴子(1912~68)は、韓国の木浦で「孤児のお母さん」尹鶴子として生を終えた。今年10月31日は、彼女が生まれてから100周年に当たる日だ。

韓国社会福祉法人崇實共生福祉財団(理事長 朴鍾淳(パク・ジョンスン) )と日本社会福祉法人 こころの家族(理事長 尹基(ユン・キ))が共同で発足させた「尹鶴子女史生誕100周年記念事業会」は今月10日にソウルで発起人大会を開いたのに続き、23日午前、東京のホテルニューオータニーで日本側発起人大会を開いて、10月の記念行事に対する計画を明らかにした。

「国連孤児の日」制定を推進する「木浦宣言」と国際学術会議を含め、韓日間の愛と平和の祭殿というテーマの下で、韓・日少年少女合唱団の協演でベートーベン交響曲9番「歓喜の歌」を公演して、韓国社会福祉の歴史を見せてくれる資料展、尹鶴子女史記念館開館式、木浦-高知市間特産物展など、歴史・文化・宗教などの領域で韓日間地方自治体社会団体レベルの民間協力が網羅されている。

東京大会に参加した柳在乾(ユ・ジェゴン)韓国ユネスコ協会連盟会長(前議員)はあいさつの言葉で「孤児のいない世界は、戦争のない平和な世界を作ろうということ」と述べ、韓日両国がこの事業に熱意を傾けることを強調した。これに先立ちソウル大会で記念事業会代表会長を引き受けた金守漢(キム・スハン)元国会議長は「田内女史は愛を実践した先駆者であり、単純な慈善事業家ではなく、日帝統治下の韓日関係を考えると、愛の精神という言葉ではその意味を表現することができない程、両国国民の胸を打った方」と述べ、韓日親善の未来を明らかにしてくれる木浦宣言に、各界人士が参加することを促した。

日本四国地方の高知県で生まれた田内千鶴子は、朝鮮総督府の下級官吏として木浦へ来た父親に付き添い日本から渡って来て、木浦高等女学校を卒業した。木浦の宣教師たちが設立した貞明女子学校の音楽教師と勤めていた彼女は、不遇な孤児たちを集めて共生院を運営していた伝道師の尹致浩(ユン・チホ)氏と出会い、38年に結婚する。彼女の年齢は26歳で、プロポーズをしたのは田内だったが、そこにはキリスト教信者としての信仰心と、日本の暴政に苦しむ朝鮮の痛みを償う心情があったと言う。ご主人の尹さんが19歳になった18年に設立した共生院は、7人の院生で始めた。当時の彼のニックネームは「乞食大将」だった。

結婚と共に名前も尹鶴子に変えた田内は、日帝強占期後半、あらゆる偏見に耐えて夫の事業を助けた。彼女は50年、朝鮮戦争中にご主人が行方不明になった以後も共生院を運営し、68年に亡くなるまで約3000人の孤児を育てた。言葉とおりご主人と家族を超え、家庭を失った孤児たちに民族を飛び越えた愛を実践したわけだ。木浦市は68年、市として初めて市民葬として葬礼を行い、3万名の弔問客が訪問した。

東京/カン・テホ記者 kankan1@hani.co.kr
原文:https://www.hani.co.kr/arti/society/rights/534475.html 訳 M.S