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2年間の地獄…67年間の恨(ハン)…15年間の法廷闘争…やっと光が

原文入力:2012/05/24 21:55(2423字)

日本製鉄強制徴用 被害者 86才 シン・チョンス氏の話
17才で金を稼ぎに行ったそこでは
12時間の肉体労働ににぎり飯一つ
徴用であったし、月給はなかった
70を過ぎて法廷闘争を始め
‘良心的日本人’らの支援で
韓日を行き来して戦ってまた戦って

初勝利の便りに "気分が良い"
"戦える限り戦う、途中で逝くことがあっても…"

 「日本の製鉄所に労務者として行ってくれば、韓国の製鉄所で技術者にしてくれるらしい」 と友人が話した。 耳をそばだてた。 その時、シン・チョンス(86)氏は17才だった。 故郷の全南(チョンナム)長城(チャンソン)を離れ、ソウルで日本人が経営する酒場の従業員をしながら苦労して金を稼いでいた時期だった。 両親と6人の兄弟姉妹で口減らしのために長男であるシン氏は早く独立しなければならなかった。 「技術を学べば後で良い生活ができると考えたんだね。」

 1943年9月10日大阪、日本製鉄工場でシン氏は凄惨な強制労働を始めた。‘就職’ではなく‘徴用’だったという事実は後から知った。工場に到着すると日本巡査が‘徴用状’を差し出した。「逃げて捕まれば身体が動かなくさせる」と工場に配置された巡査が脅した。

 まだ幼かったシン氏は巡査の脅しより空腹がもっと辛かった。 「一日ににぎり飯一つだけで重労働をさせたんだよ。腹が減ってたまらなかった。」 シン氏は溶鉱炉に燃料を供給する配管を清掃していた。 配管の中の熱気で肉が真っ赤に腫れ上がった。 唾を吐けば真っ黒なススが混じって出た。 一日12時間ずつ働いた。 腹は減り仕事をしても金は受け取れなかった。 月給を貯金してあるという通帳は一度も見ることができなかった。

←日帝強制徴用被害者であるシン・チョンス氏が24日午後ソウル、松坡区(ソンパグ)、風納洞(プンナプトン)の自宅で日本人後援者が書いた激励文面が入れられた額縁を持ち上げて見せながら明るく笑っている。

 強制労働は強制徴兵につながった。 1944年のある日、突然身体検査を受けたが空軍服務判定が出た。 太平洋戦争の末期だった。 「それが私に‘神風’(自殺特攻隊)として出て行けという話だった。」 そのままいれば否応無く軍隊に連行されそうだったので工場から逃げた。 すぐに捕まった。 日本巡査の脅しは嘘ではなかった。「死ぬ一歩手前まで木剣で袋叩きにされた。その苦痛は口では言えない。」 1945年6月、米軍の爆撃で大阪工場が焼け、日本製鉄は韓国人労務者を中国、天津工場に移した。 強制労働は続いた。 そうしていると8月13日の出勤途中に日本憲兵が出てきて「ソ連軍が上陸した」と大声を張り上げた。 皆ちりぢりになって逃げた。昼夜歩きとおして汽車の屋根に乗った。 汽車の煙突の熱気で髪も眉毛もみな焼けた。

 三日後にソウルに到着した。 8月16日だった。 その時初めて光復(解放)の消息を聞いた。 月給を受け取らなければと思った。「大切な青春を戦争のために連行されて行き血と骨を捧げて稼いだ金」を手にしたかった。 南大門市場(ナムデムンシジャン)にあった日本製鉄の出張所を訪ねて行った。 誰もいなかった。 日本人たちは皆荷物をまとめて日本に戻ってしまっていた。

 1949年、軍に入隊したシン氏は韓国戦争途中で砲弾の破片に当たり左手を負傷した。 今も左手は開けない。 除隊後には釜山にある米軍部隊の構内食堂で働いた。 大田(テジョン)駅前でリヤカーを引きパン売りもした。 さらに歳を取ってからはゲームセンターも構えてみたし、カラオケも営んでみた。 一生の間シン氏の人生は安らかではなかった。

 17の少年が70の老人になっても恨は解けなかった。 1997年シン氏とともに日本製鉄に強制徴用されたヨ・ウンテク(89)氏の誘いで法廷闘争を始めた。 日本の良心的知識人・活動家が‘日本製鉄徴用工裁判支援会’を作りお金を集めた。日本、大阪地方裁判所に訴訟を初めて提起した後、一年に三回ずつ日本を行き来した。 日本の地で街頭デモもした。 だが、地裁・高裁はもちろん日本最高裁判所までがシン氏を無視した。 「目の前が真っ暗になりましたね。 腹が立って法廷で小競合いまでした。」

 若き日の彼を無理やり働かせた新日本製鉄本社にも訪ねて行った。 「一度話をする機会をくれ」と繰り返し頼んだが、会社への出入りさえ冷たく拒否した。 そんな事情は10万人余りの朝鮮人徴用者を強制動員した三菱重工業も同じだった。 「すでに裁判も終わった。補償問題は考えていない」として傲慢に相対した。シン氏は他の被害者とともにわびしい悲嘆を噛みしめた。

 韓国政府に視線を転じたのはその頃だ。 「このような私たちをなぜ黙って見てばかりいるのか」くやしくて2005年ソウル中央地裁に訴訟を起こした。 韓国裁判所でも1・2審と敗訴判決が続いた。 国内訴訟は法務法人‘ヘマル’が後援した。 24日の韓国最高裁判決はシン氏が手にした初勝利だ。「勝ったという知らせを聞いて涙が出尽くしたよ。」ソウル、松坡区(ソンパグ)の自宅で判決の知らせを聞いたシン氏の声が17才の少年のように浮き立っていた。

 しかし実際に補償を受けるまでには今後どれほどの時間がかかるかは分からない。「戦える限り戦わなければ。途中で逝くことがあっても…」シン氏の自宅居間には日本人後援者がハングルで書いた激励文面が額縁に納められ懸かっていた。 “勝利のその日まで。”

文・写真キム・ジフン記者 watchdog@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/534574.html 訳J.S