原文入力:2012/04/01 18:09(1772字)
←済州(チェジュ)4・3研究所調査班が1992年3月22日済州道、北済州郡(プクチェジュグン)、旧左邑(クジャウプ)中山間の‘タランシュィオルム’周辺のタランシュィ窟で4・3当時に犠牲になったと推定される死骸の遺骨を調べている。 <ハンギョレ>資料写真
惨状知らせた後、悔恨残ったチェ・ジョンオク氏
1948年軍・警が住民11人を抹殺
1992年 証言出てきて遺骸探す
43年余ぶりに‘タランシュィ窟の惨状’を世の中に明らかにしてから、更に20年の歳月が流れたが、80代の老人の顔は晴れなかった。「毎年この時期になればいつも思い出す。世の中に知らされるのが早すぎたようで。もう数年後に知らされればどうなっていただろうか…」 20年前に初めて世の中にタランシュィ窟の悲劇を知らせたチェ・ジョンオク(86)氏は30日、悔恨がにじむ深い息を吐き出した。 1992年4月、彼の証言で済州島東部地域の済州市(当時、北済州郡(プクチェジュグン))旧左邑(クジャウプ)タランシュィオルム近隣の原野‘タランシュィ窟’で11体の4・3犠牲者遺骸が発見された。 この事件は4・3の悲劇を全国に知らせる契機となり、真相究明運動の起爆剤になった。 遺族たちが犠牲者の遺骸を墓に安置しようと訴えたが、盧泰愚政府時期だった当時の情報機関と警察、済州道などが介入し、ついに5月15日に火葬されて旧左邑、金寧里(キムニョンニ)の海にまかれてしまった。
「盧武鉉大統領は4・3遺族たちに謝罪をしませんでしたか? その後に発見されていれば遺族たちも犠牲者の恨を解いて埋葬しようと言った筈だ。」永い歳月にわたり洞窟の中に閉じ込められていた歴史的悲劇の真実を明らかにはしたが、犠牲者の霊魂を完全に慰められなかったという後悔が濃く滲んでいた。父親と叔父をタランシュィ窟で失ったコ・グァンチ(72)氏は「火葬した遺骨を少しでも保管するためにマッチ箱を持って船に乗ったが、とても口にすることはできなかった」として残念がった。
"世の中に知らせるのがあまりに早すぎて
埋葬することももまともにできなかった"
犠牲者に関心がない政府に失望
←1992年4月済州市、旧左邑、タランシュィ窟で発見された11人の4・3犠牲者遺骸の真実を明らかにしたチェ・ジョンオク氏が30日タランシュィ窟犠牲者らと自身の4・3経験談を話している。
4・3の渦中に夫人と3才の息子、両親、叔母が順に警察の犠牲になったチェ氏は「4・3問題が全て解決されたわけではない」と力をこめて語った。 李明博政府4年が過ぎて4・3犠牲者に対する関心がまだ不十分だということを痛感した。 「拷問にあって障害を持つことになった人々に対する対策もなくてはならず、被害者対策もさらに積極的に用意しなければならない。 20年が過ぎた今でも真実がみな明らかになったわけでもないし…。」 タランシュィ窟遺骸は済州4・3研究所がうわさを追跡して91年12月に発見したし、続いて事件の実状を記憶していたチェ氏に会って真相が明らかになった。
1948年12月18日軍・警・民合同討伐隊はタランシュィ窟に避難し身を守っていた9才の子供から51才の婦女子まで住民11人を発見した。住民たちを垣の内側に追い詰めた後、ワラに火をつけた。 住民たちは煙で窒息し全員が命を失った。 「苦痛をこらえられず爪で地面を掘ったり、耳や鼻から血を流し苦痛の表情で岩に頭を内当て凄惨に亡くなっていた。」当時、山で過ごしていたチェ氏はその日の夜、遺骸を整理して綿布で覆い引き返した場面を生々しく覚えていた。その翌年の5月に山から降り警察で拷問を受けたが無罪放免された後、韓国戦争時には軍に入隊して勲章も受け取った。
韓国現代史の荒波の中で迂余曲折を経た彼の証言と世の中に明かされたタランシュィ窟は、今4・3巡礼客の足が続く4・3悲劇の象徴的場所となった。
済州/文・写真ホ・ホジュン記者 hojoon@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/area/526179.html 訳J.S