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全斗煥に立ち向かった将軍夫人の悲劇的最期

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/515105.html

原文入力:2012/01/17 17:11(1885字)

キム・ジフン記者、キム・ドヒョン記者

チャン・テワン前首都警備指令官夫人 投身自殺
"申し訳ない ありがとう 長生きして" 遺書
夫の死後、対人忌避 激しいうつ病を患う

 "申し訳ない。ありがとう。 長生きして。"  そんな三節を残して将軍の夫人は自身が暮らしたアパート10階から身を投げて78年間の人生のひもを手放してしまった。

 故チャン・テワン前首都警備指令官(将軍)の夫人イ・ビョンホ(78)氏が17日午前9時15分頃、ソウル江南区(カンナムグ)、大峙洞(テチドン)の宇成1次アパートの自宅から飛び降りて命を絶った。 チャン前将軍は1979年12月12日、全斗煥、盧泰愚など朴正熙大統領の寵愛を受けた軍部内私組織であるハナ会勢力による12・12軍事反乱に対抗し鎮圧作戦を展開し、むごい苦難にあい強制的に予備軍へ編入された悲運の主人公だ。

 午前10時頃、急報を聞いてイ氏が亡くなった現場に駆け付けた娘のヒョンリ氏が母親の遺体にすがりつき「お母さん、死んじゃダメ」と言って嗚咽した。 10年間にわたり一緒に過ごした家事手伝いのおばさん(67)もヒョンリ氏と抱き合って泣き崩れた。

 警察は遺書と普段からうつ病を病んでいたという周辺の人々の話により投身自殺と結論付けた。 イ氏はチャン前将軍が2010年10月27日、79才を一期に世を去った以後、人と会うことを忌避し病院に入院するなど激しいうつ病を患ってきたことが分かった。 イ氏が暮らしたアパートの警備員は「将軍様が亡くなって頼る所がないためうつ病になったのだろう」としつつ「人と会うことを望まず警備室に‘人が訪ねてきても来させないように言われていた’と語った。 いつも家にばかり閉じこもっておられ、周辺に友人もいなかった」と話した。

 チャン前将軍夫妻は生前にとりわけ仲が良かったと周辺の人々は話した。 イ氏の階下に暮らす住民コン・某(82)氏は 「将軍様が生きておられる時、お二人は文化センターに一緒に通って舞踊を学び、鼓も楽しまれた」 としながら 「韓服を着て韓国舞踊を踊られるのが趣味だったが、奥様は将軍様が亡くなって趣味活動を全て絶ってしまわれた」と話した。 彼は続けて「奥様は普段から ‘私一人生きて何になるの’ といったことをたびたびおっしゃった」として 「このようなことになって本当に残念だ。 息子もどのようにして死んだかも分からないのに…」と惜しんだ。

 イ氏の自殺は韓国現代史の悲劇が投影された側面からも社会的関心を呼びおこしている。 当時ソウル大学自然大1年に在学中のイ氏の一人息子はチャン前将軍が12・12反乱鎮圧に失敗した後、保安司に連行されむごい苦難にあい強制的に予備軍に編入された直後に行方不明になった。 彼は一ヶ月後に慶北(キョンブク)、漆谷(チルゴク)本営の忍冬 チャン氏祭室前で遺体で発見された。

 1950年陸軍総合学校を卒業した後、5軍団作戦参謀としてベトナム戦に参戦したチャン前将軍は首都警備司令部参謀長、陸軍本部教育参謀次長などを経て79年11月に首都警備司令官に上がった。 しかし1ヶ月後に12・12事態が起き、故人はこれを‘反乱’と規定し新軍部側に立つことを拒否した。

 生前に故人は当時の状況について「ハナ会員がチョン・スンファ陸軍参謀総長を拉致した時、すでに大勢が傾いていた」として「だが、鎮圧責任を負った私が白旗を揚げることはできなかったし、死のうと決心してから心が安らかになった」と回顧した。

 鎮圧に失敗した故人は保安司令部により逮捕され、二ヶ月間にわたり調査を受けて解放されたが自宅軟禁と強制予備軍編入にあった。 それで彼は自身を 「首都警備司令官の責務を成しとげられなかった罪人」と話したりもした。

 チャン前将軍は12・12事態が歴史的に再照明され、‘真の軍人像’として賞賛を受けた。 故人は94年に自由競選で当選した初めての在郷軍人会長になり2000年の16代総選挙では民主党の国会議員になった。 全国区議員だった故人は民主党最高委員に指名され、2002年には盧武鉉大統領候補の報勲特別補佐官を引き受けた。

キム・ジフン記者、キム・ドヒョン先任記者 aip209@hani.co.kr

原文: 訳J.S