原文入力:2009-03-11午後10:50:15
キム・ヒョンヒ, 18年ぶりに公開席上
北韓 拉致 日本女性家族に会って “メグミも生存可能”
“現政府, テロ歪曲企図 調査中”…日本, 大々的関心
シン・ドンミョン記者,キム・トヒョン記者
←大韓航空858機爆破犯キム・ヒョンヒ(右側)氏が11日午前、釜山,ベクスコで自身が工作員教育を受けた時、日本語を教えた田口八重子の子息,飯塚耕一郎に会い抱擁し涙声で話している。田口は1978年北韓に拉致されキム氏とともに暮らしながら日本語を教えたイ・ウンヘという人物として知られた。キム氏は1991年以後18年ぶりに言論に姿を表わした。 釜山/写真共同取材団
1987年大韓航空(KAL) 858機爆破事件の犯人,キム・ヒョンヒ(47)氏が11日釜山で、北韓に拉致された日本人,田口八重子(韓国名 イ・ウンヘ)の家族に会った。キム氏が言論に姿を表わすのは1991年大韓航空機爆破事件で死刑の宣告を受け特別赦免され記者会見をして以来18年ぶりだ。
キム氏はこの日午前11時頃、釜山,海雲台,ベクスコ2階コンベンションホールで田口八重子の兄,飯塚繁雄拉致被害者家族会代表と田口の子息,飯塚耕一郎の2人に会い挨拶を交わした後、非公開場所に移り80分余り対話をした。キム氏は北で工作員教育を受けた時、1978年に拉致された田口から日本語を習った縁で最近日本言論とのインタビューでその家族に会いたいという意向を明らかにした経緯がある。
キム氏はこの日、田口家族と面談した後に開いた共同記者会見で「87年1月から10月まで北韓招待所で生活し田口の消息を聞いた。田口をどこかに連れていったとは言ったが、どこかはよく分からないものの亡くなったわけではないと理解している」と明らかにした。キム氏はまた別の日本人拉致被害者である横田めぐみに対しては「北の工作員同志であるキム・スクヒに日本語を教え、87年に南朝鮮の人と結婚し娘を産んだという話を聞いた」として「めぐみが死亡したという北側の話も信じることはできない」と主張した。
彼女は最近ある言論とのインタビューで参加政府と国家情報院が自分を疲れさせたと暴露したことと関連した質問を受けて、「この席で具体的に話すことは・・・」として「現政権が前の政府であったことを調査していると言うので結果を待っている」と答えた。彼女はまた航空機爆破事件と関連しては「被害者遺族たちも大部分は北の仕業と認定している」として「97年12月に手記を出して受け取った印税を遺族たちに伝達して話も交わした」と話した。
この日飯塚耕一郎は「キム氏を通じて母親が生きているという確信を得ることができ、これからの被拉致者救出活動に新しい希望ができた」として「これから拉致問題について韓国・日本の共助活動が具体化されることを期待する」と話した。
キム氏と田口家族のこの日面談はキム氏が「自身の日本語教師であった田口の子息に会いママの話をしたい」という意向を明らかにしたのに続き、田口の子息,飯塚耕一郎も日本外務省にキム氏に会いたいという手紙を送って実現することになった。飯塚耕一郎は1978年6月母親の田口が北に拉致された後、母方の伯父である飯塚繁雄の養子として入籍され一緒に暮らしてきた。
日本言論はこの日彼らの出会いを大々的に報道した。公営<NHK>と民放は現場状況を何回も衛星中継し、ほとんど全ての新聞がこの日の夕刊に八重子の子息と金氏の抱擁写真を載せトップ記事として扱った。特に北韓政府が死亡したと発表した田口とめぐみの生死に対してキム氏が「ママ(田口)は亡くなってはいないと理解している」,「(めぐみが)死んだという話は信じることはできない」とした発言内容をいっせいに大見出しにし、北韓政府の公式発表に反論する姿を見せた。一部言論は日本に協調的なキム氏の態度に鼓舞されたように「歴史的な感激の日」(<毎日新聞>)というタイトルでキム氏に同情的に報道したり、はなはだしきは‘親北左派政権’の犠牲者という雰囲気で報道するところもあった。
政府スポークスマンの河村建夫官房長官もこの日の記者会見で「面会申請を受け入れたキム氏と尽力してくれた韓国政府にもう一度感謝する」として「新しい事実が出てくればどのように対応するか考えなければならない」と明らかにし、キム氏の証言内容を活用し北韓政府を圧迫する意向を明確にした。釜山/シン・ドンミョン記者,東京/キム・トヒョン特派員tms13@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/343610.html 訳J.S