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希望のバスが来なかったとすれば私は…

原文入力:2011/12/25 20:39(2964字)

名前も知らないあなたたち、ありがとうございます

韓国社会 今年の人物 キム・ジンスク
一つの命でも生かさなければならないという
その切ない気持が成し遂げた奇跡
誰が想像したでしょうか

←キム・ジンスク氏が去る21日夜、釜山拘置所前で開かれたソン・ギョンドン詩人など希望のバス参加者の釈放を要求するロウソクのあかり文化祭に参加してマフラーを結びなおしている。クレーン籠城中にツイッターで友人になった‘ヨンドヒヤ’氏がキム・ジンスク氏に近づきうれしそうに挨拶をしている。 釜山/リュ・ウジョン記者 wjryu@hani.co.kr

<ハンギョレ>は‘今年の人物’として309日間高空クレーン籠城を通じて労働問題に対する関心を呼び起こし、社会的連帯の大切さを呼び覚ましたキム・ジンスク氏を選定した。彼女に会うために釜山に下って行った‘希望のバス’は今年韓国社会が汲み上げた最も貴重な成果物の一つだ。 キム・ジンスク氏が309日のクレーン籠城を振り返ってみて、希望のバス搭乗者に感謝を伝える文を送ってきた。

 影島の風の強さは有名だ。 別名、糞風とも言う。クレーンは24時間揺れ続け、風の激しい日には吐くことを何度も。そのようにして2~3ヶ月が過ぎたある日、嘘のように風酔いが止まった。

 心配し応援してくれた数多くの人々の拍手と涙の中をクレーンから降りてからは、土地酔いに苦しめられた。 揺れる土地、突然大きく見えるようになった人々。 遠くにだけ見えていた事物や車が目の前を行き交うのを見てめまいがした。 今度は地面で吐いた。土地酔いが少々収まると今度は方向感覚が問題になり、エレベーターに乗る方法も、計算する方法も新たに慣れなければならなかった。 そのようにしてようやく309日が軽い時間ではなかったことを悟りつつある。

 大変な日々がどうしてなかったろうか。 そのような日はクレーンの上に植えたサンチュ、チコリ、イチゴ、ミニトマト。 ブルブル震えるその幼いものを覗き見て尋ねた。

 "お前たちも大変だろう?"

 寒くて大変なのではないか、この暑さを鉄の塊の上でどのようにして耐えるかと人々は常に心配してくれた。しかし本当にしんどかったのは人だった。 絶え間ない強制侵奪の試み、韓進(ハンジン)資本は85クレーンさえ引き下ろせれば整理解雇を成功させられると確信した。 2003年度に試み、キム・ジュイク、クァク・ジェギュ2人の死で‘邪魔され’ 8年間にわたって緻密に準備した整理解雇. その用意周到な試みが85クレーンの占拠によって再び‘邪魔された’と彼らは考えた。 黒字を赤字に偽装して危機説を絶えず流布しながら希望退職を強要し、下請け労働者を絶えず切り捨て、馬山(マサン)・蔚山(ウルサン)・多大浦(タデポ)・栗島(ユルド)・設計室などを次々と閉鎖した。

 眠って起きれば流れてくる公権力投入説が時間も経過と共に具体化され、特攻隊が84号クレーンを綿密に偵察して行くことで既定事実化された。そのような動きがツイッターを通じて知らされ、<アルジャジーラ>などの外信報道が続いた。

 ‘公’権力ではこれ以上どうにもできない状況に達するや、すぐに動員されたのが‘私’権力だった。 今考えてみれば彼らの緻密な準備に鳥肌が立つ。 6月27日。 公権力の力を借りて組合員を追い出しクレーンを完全に接収した外注ガードマン。 その日からは毎日が戦争だった。

 クレーンを取り囲んだ外注ガードマンは時をわきまえずクレーンに駆け上がってきたし、それがうまくいかないと人々の視線から逃れるためにクレーンを海岸側に引っ張っていこうとする作戦が毎日毎日新たに繰り広げられた。 クレーンの電気はもちろん周辺の電気まで全て切れた真っ暗闇の絶壁。 身を投げようとする意思を行動で表現することで彼らの試みを阻止するしかなかった。 睡眠もとれず、食べることもできず、思わずもう終わらせたいという誘惑。

 その度に天使が派遣したように人々が来た。 ソウルから、仁川から、水原(スウォン)から、大田(テジョン)から、光州(クァンジュ)から、全州(チョンジュ)から、木浦(モクポ)から、清州(チョンジュ)から、忠州(チュンジュ)から、馬山(マサン)から、蔚山(ウルサン)から、鎮海(チネ)から、済州(チェジュ)から、ドイツから、英国から、フィンランドから、日本から、香港から…。そんな遠方から駆け付けてきて一日中、あるいは何日もクレーンだけを眺めていた人々、退勤するやいなや駆け付けてクレーンを眺めて夜を明かした人々。 毎晩、百拝誓願を上げた人々。 キム・ヨジンと遊び人外部勢力が内包した笑いは希望のバスという奇跡を産んだ。 希望のバスが来なかったとすれば、そして希望のバスが一度で終わったとすれば、2003年の状況が繰り返されただろう。

 1月6日明け方、クレーンに上がった瞬間、すでに生と死は私の選択によるものではなかった。

 強制侵奪の動きがある度に私がクレーンから身を投げるという動きを見せると、彼らはすぐに3,4ドックに網をかけた。 キム・ジュイクが85号クレーンで死ぬや4ドックに身を投げたクァク・ジェギュ。 彼らも2003年を記憶していたし、彼らなりにも2003年を繰り返したくはなかったのだ。 ‘人の命の一つ位は’言えば言うほど、その命一つを生かさなければならないという切ない思い。 その切なさが作り出した希望のバス。 希望のバスの姿は誰もが想像もできなかった。 1次750人が2次では1万人になるだろうとは誰も予測できなかった。 人の顔に向けてばら撒いていた催涙液、色素を混ぜた放水銃、そして無差別的連行と暴力. 彼らも恐ろしかったのだ。

 無惨なほどに時間の流れはのろい。 その長かった夜と明け方、闇がもたらす恐怖、横になればからだを伸ばすこともできなかった寒くて小さな空間、九歩歩けば虚空につながる狭くて危険な欄干。 その狭いところで起きた日常にしてはあまりにも多様だった時間。 毎日毎日、時々刻々が違う309日。 何の約束もなしにクレーンで待つことを教えた希望のバス。 鉄の塊の上でも青い葉を育てた風と日差し。

 私が半生を戦ったように今後も戦いは続くだろう。 解雇者たちは復職を待っていて、彼らは民主労総を無力化させる複数労組を夢見る。 才能、双龍(サンヨン)自動車、全北(チョンブク)高速、江汀など希望を待つ所はあまりに多い。 しかし希望のバスに乗った私たち自らが驚いたように、私たちは途方もない力を持っている人間だ。 希望のバスが持つ最も大きな力は、各自他の旗を掲げていても一台のバスに乗ることができるということを知ったことではないだろうか。

 ソン・ギョンドン、チョン・ジンウが出監する日、思う存分大声を出して勝利を喜ぼう。 そしてまた次の勝利のために希望を乗せて走ってみよう。

2011年12月22日 キム・ジンスク


原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/labor/511722.html 訳J.S