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‘アカ’後ろ指に耐えて嫁たちが成し遂げた

原文入力:2011/12/16 22:38(1785字)
バク・ギョンマン記者


‘高陽クムジョン窟 民間人虐殺’発掘から国家賠償判決まで…
1993年 遺族会結成 糾明に立ち上がり、連座制に悲鳴…150余体を確認
"私たちの代で悲劇を終わらせる覚悟" 空回りする慰霊事業に遺憾


←高陽クムジョン窟遺族会 マ・イムスン(65・写真左)会長とイ・ギョンスク(64・右)総務


  "惨たらしい歴史的悲劇と傷を次世代に渡さず私たちの代で終わらせようという心情で20年間必死でした。"

  京畿道高陽市一山西区(イルサンソグ)、炭峴洞(タニョンドン)、クムジョン窟民間人虐殺事件と関連して国家を相手に起こした損害賠償請求訴訟で15日、勝訴した被害者の‘嫁’たちである高陽クムジョン窟遺族会マ・イムスン(65・写真左)会長とイ・ギョンスク(64・右)総務は16日全くとんでもない過ぎた歳月を淡々と打ち明けた。


  韓国戦争が勃発した1950年10月、マ会長の夫アン・某(66)氏の家族は祖父と父、叔父、中学3年だった長兄、小学校5学年の次兄など3世代5人が高陽警察署に連行され裁判もなしで銃殺された。叔父の家族が北に行ったということが理由だった。報復を憂慮した治安隊員は‘男の種を絶やす’として親戚の家まで隅々まで探しまわり幼い子供まで捕えて行ったという。幸いにも5才だったマ会長の夫アン氏は親戚のおじいさんが壷に隠して災いを免れた。


  イ・ギョンスク総務の舅(韓国戦争当時27才)は第二子を妊娠した23才の夫人と4才の息子を残したまま高陽市(コヤンシ)、新平洞(シンピョンドン)の自宅で警察に捕まった後、再び帰ってこなかった。 姑(84)は夫を待って10年が過ぎると祭壇を整えた。法事の日は警察がやってきた1950年10月14日の夜だ。それから45年の歳月が流れた1995年9月30日、クムジョン窟地下で普段から財布に入れていた舅の印鑑が発見された。


  両親を失いまともな教育を受けることが出来なかった遺族たちは、連座制のくびきで差別待遇まで受け、ほとんどが貧しく、真実糾明を要求する勇気を出すことも難しかった。


  マ会長ら6家族が1993年に遺族会を結成し1995年にクムジョン窟で遺骸(少なくとも153体)と遺品を発掘し、遺族たちが集まり始め会員が150人を越えた。遺骸はソウル大医大研究室に15年を超えて保管されていたが、去る9月からは一山東区(イルサントング)、雪門洞(ソルムンドン)の清雅公園に臨時安置されている。


  ‘真実・和解のための過去史整理委員会’は2007年真実糾明決定を行い、歴史平和公園と遺骸安置施設の造成を勧告し、今回国家を相手に起こした損害賠償請求訴訟で遺族たちは勝訴した。ソウル中央地裁民事合議31部(裁判長 チョン・グァンシク)は15日 高陽クムジョン窟事件犠牲者33人の遺族92人が起こした訴訟で‘国家は不法行為の責任を負い、遺族92人に52億ウォンを支払え’と判決した。


  だが、61年が過ぎた今でもクムジョン窟民間人虐殺事件は進行形だ。遺族たちは国家賠償判決も出た以上、一日も早く慰霊事業が始まるように願っているが、依然として‘アカ’という後ろ指に苦しめられていると語った。高陽市議会が最近、高陽市の来年予算案を審議する過程でクムジョン窟を高陽歴史平和公園にする事業の実施設計予算4億5000万ウォンを全額削減したのだ。保守団体は高陽市庁前でこの事業の推進に反対する示威を繰り広げた。


  真実和解委員会調査官としてクムジョン窟事件を受け持ったシン・キチョル(48)氏は 「高陽クムジョン窟は体系的虐殺が強行された高陽警察署の公式処刑場であり、犠牲者の遺骨が完全に残っている唯一の地域」とし「犠牲者の身元を全て確認できる程に経路が明らかだ」と話した。シン氏は1950年9~10月、全国200の警察署でクムジョン窟のような処刑場を1~2ヶずつ運営し、そちらで4万~6万人の民間人が裁判なしに処刑されたと推定した。高陽/文・写真 パク・ギョンマン記者 mania@hani.co.kr


原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/area/510604.html 訳J.S