原文入力:2011/12/14 22:32(2686字)
パク・ヒョンジョン記者
‘1992年1月8日’30人余りが始め
謝罪・賠償を訴えたが黙殺不答
その間に171人が亡くなった
←消えゆく‘歴史’の証言 ハルモニは一人二人と亡くなっている。14日現在、政府に登録された234人の内63人だけが残った。ハルモニは天に発ったが証言は新しい歴史を作った (※イメージをクリックすれば大きく見ることができます)
■ハルモニたちの果てしない行進
日本軍‘慰安婦’問題解決のために韓国挺身隊問題対策協議会(常任代表 ユン・ミヒャン、以下 挺対協)がソウル、鍾路区(チョンノグ)の日本大使館前で毎週水曜日に開いてきた‘水曜デモ’が14日で1000回を迎えた。固く閉ざされた日本大使館の鉄門前で日本政府の公式謝罪と賠償を要求してきて20年の歳月が流れた。世界的に類例がない最長期集会記録だ。
1992年1月8日、宮沢喜一 当時日本総理の訪韓を控え、挺対協会員など30人余りが日本大使館前で慰安婦強制連行認定などを要求して水曜デモの歴史は始まった。
水曜デモは慰安婦問題をはじめとして未だ清算されていない日帝強制占領期間の過去史を社会的に公論化することに寄与した。特に1991年8月14日、慰安婦被害者としては初めて公開証言に立った故キム・ハクスン ハルモニ(当時67才)の勇気が水曜デモの基礎になった。以後、言論で連日慰安婦問題を報道しながら被害者が一人二人と世の中に出てき始めた。
水曜デモが歩んできた道
水曜デモ1000回は自身が被った苦痛を子孫が体験しないようにというハルモニの執念があってこそ可能だった。ハルモニは高齢と厳しい天候にもかかわらず長い歳月ただの一度も水曜デモを欠かさなかった。ハルモニたちが初めから闘士だったわけではない。ハルモニは7回目の水曜デモから参加したが、その当時はカメラの前で頭を下げたり顔を隠した。1992年からハルモニたちと縁を結んだキム・ソンシル天主教女性共同体実行委員は「以前はハルモニが人々に会えば、その間の深い恨を晴らすために2~3時間も話を止められず、それを聞く私たちもいつも一緒に泣いた」と話した。
‘慰安婦’被害者死亡推移
デモが重なるほどハルモニは平和運動家や歴史の先生に変わっていった。被害者として運動の主体に新たに乗り出したのだ。ハルモニは国境を越え国際的連帯を引き出した。去る2007年、米国下院では日本政府の謝罪決議案を採択した。 同年11月ヨーロッパ議会でも日本政府の謝罪と法的賠償を要求する決議案が出された。イ・ヨンス、キム・クンジャ、キル・ウォンオク ハルモニのみならず、オランダのエレン、フィリピンのメネン ハルモニらが米国とベルギーで被害証言に立った。
しかし水曜デモは至急に幕を下ろさなければならない私たちの時代の悲劇だ。ハルモニの要求は日本の△慰安婦犯罪認定△真相究明△日本議会の謝罪決議△法的賠償△歴史教科書記録△慰霊塔と資料館建設△責任者処罰など七種類だ。ハルモニには時間があまりない。慰安婦被害申告者234人の内、生存者は63人だけだ。今年だけで16人が亡くなった。そのために挺対協は来年3月を目標に‘戦争と女性人権博物館’の開館を急いでいる。今はソウル、麻浦区(マポグ)ソンミ山の山裾に土地と建物を用意した状態だ。挺対協は博物館を慰安婦被害を知らせ、平和と人権を実現するための場にすると明らかにした。
ユン・ミヒャン挺対協代表は「1000回に集まった国民的関心が1001回に続けば良い」として「今からでも日本政府の謝罪と賠償が成り立ち、時間が過ぎても問題は必ず解決されるという希望を人々に抱かせたい」と話した。
パク・ヒョンジョン記者 saram@hani.co.kr
学生・子供…日本人労働者まで1,000,000人余り 胸がしびれた参加
■共にした人々
去る9月に開かれた986回水曜デモを主管した人々は京畿道(キョンギド)、平沢(ピョンテク)から来た駐韓米軍基地村のハルモニだった。1年前に初めて水曜デモに参加した基地村ハルモニは‘慰安婦’被害ハルモニが以前にそうしたように顔を隠した。生活苦にあえぐ事情も似ていた。‘慰安婦’被害ハルモニたちと基地村ハルモニが初めて会ったのは2009年の父母の日だった。慰安婦被害ハルモニは基地村ハルモニに「(初めは)私も自分の過ちとばかり思っていたため胸が焦げるようだったが、(後になって分かってみると)自分の過ちではなかったよ。胸を張って生きよう」と励ました。
水曜デモは当初、暗い歴史のせいで始まったが、‘じんとした連帯’を通じて希望を作り出している。今まで水曜デモを主管した社会団体は186ヶ所に達する。年間水曜デモ参加人員は5万人余りと推算される。毎年11月になれば水曜デモに訪ねる日本人労働者もいるほどだ。14日に開かれた第1000回デモにも外国人・学生・子供から年配者まで多様な年齢帯の市民が席を共にした。
チャン・ヒョジョン(40)氏は2000年‘日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷’映像撮影を担当してハルモニたちと縁を結んだ。彼は今年、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)を助けた隠れたボランティアメンバーたちに与えられる特別賞‘蝶々の夢’を受けもした。チャン氏は「慰安婦問題に対して私たちの社会に‘もうそれだけやれば良いだろう’という認識が多いようで残念だ」と話した。
時間を作っては挺対協の翻訳の仕事を手伝っている日本人コウノ・ダイスケ(41)も2000年に初めて水曜デモをに訪れた。光州(クァンジュ)広域市、スワン中学校で国語を教えるキム・テウン(34)氏は去る1月、水曜デモに生徒たちと共に参加した後から‘慰安婦’被害歴史教育に関心を傾けた。キム氏は2学期に‘慰安婦’被害歴史教育のための12時間の創造力裁量授業を行った。スワン中3年生380人余りは10月15日学校で仮想の水曜デモと歴史・人権教育行事を行った。12才の時に日本の強制労働に連行されたヤン・クムドク(83)ハルモニはこの日この学校を訪れ生徒たちを見て目がしらを赤らめた。
パク・ヒョンジョン、ジョンファンボン記者 saram@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/510249.html 訳J.S