原文入力:2011/12/12 15:58(3623字)
キム・ドヒョン記者
拷問後遺症を病むキム・グンテ前長官
数年間 パーキンソン病を患い
イ・グンアン「その時に戻れば同じように仕事をするだろう…当時には‘愛国’」
←キム・グンテ前保健福祉部長官
キム・グンテ前保健福祉部長官が1985年9月、民主化運動青年連合(民青連)議長時期、当時治安本部南営洞(ナミョンドン)対共分室に連行され電気・水拷問を受け‘獣の時間’を送った後遺症で病魔に苦しめられている事実が知らされ、1980年代の拷問捜査に対する国民的公憤が高まっている。キム前長官は去る10日、娘の結婚式にも出席できなかった。
1980年代、全斗煥軍事独裁政権時期の拷問捜査を語る度に登場する人物がイ・クンアン前警監(72・現在は牧師)だ。
1988年12月<ハンギョレ>がキム・グンテ前長官を直接拷問した‘顔のない拷問技術者’の実体を顔写真と共に初めて報道した後、イ氏は11年間の逃避生活の末に自首し7年間の収監生活を送った。
ところでキム前長官の闘病生活が報道されイ氏の行跡が再び注目されている。ツイッターでは昨年2月、時事週刊誌<日曜ソウル>に二度にわたり報道されたイ氏のインタビュー記事が再び広く知られている。
イ氏はインタビューで自身は拷問技術者ではなく「強いて技術者という呼称を付けるなら尋問技術者が適当だ」として電気拷問などの拷問捜査行為を全面否認した。
「論理で自身を防御しようとする人とそれを破ろうとする捜査官は激しい頭脳戦を行う。そのような意味で尋問も一つの芸術だ。私はその芸術を美しく装飾できはしなかったが。」
あわせて彼はその当時に戻っても同じことすると明らかにした。そして自身の行為を‘愛国’と表現した。
強制尋問はあったが被害者が主張する惨たらしい電気拷問はなかったとし、実体が誇張されたという風に主張した。キム・グンテ常任顧問に対しても「乾電池2個を利用して恐がらせただけで拷問ではない」として自身の尋問は「一種の芸術」だと強弁した。
キム・グンテ前長官拷問事件に対して裁判所は拷問事実に対し有罪を認め、7年の刑を宣告したがイ氏は「当時の電気拷問の実体は私が趣味で作った模型飛行機モーターから抜いたAA乾電池2個を利用して怖がらせただけ」と主張した。
彼はキム前長官事件と関連して「彼の口を開かせる方法として考案したのがいわゆる電気拷問だった」としつつも、実行したのは電気拷問ではなかったと主張した。
「その時、キム・グンテ氏を前にして2時間以上にわたりわざと言葉で怖がらせた。‘お前のような野郎は電気焼きをしなければ本当のことは言わない」という言い方で相手を怖がらせた。ひとしきりした後に目隠しをして、裸足に塩水をばらまき乾電池二つを押し当て継続的に恐怖を与えた。すでにギリギリまで緊張した状態で、ビリビリする感覚に驚かない人がどこにいるか。」
しかし恐怖を与えただけというイ氏の主張とは異なり、当時を回顧するキム・グンテ顧問の陳述は拷問の悪夢を生々しく証言している。
「大声を出せば強く電流を流し、うめき声が出ないように舌を歯でぎゅっと噛み締め、舌を抜くとまた強い電流を流し、こらえればこらえているからとしてまた、そして彼らの目標は総体的な混乱、錯乱状態へ突入」(1987年に出版された‘キム・グンテのイ・グンアンに対する記憶’)
「頭が裂けるような痛みが襲い、その押し寄せる恐怖といえば死の影が鷲のように飛んできて食い込むよう明滅しました。電気が足から頭のてっぺんまで衝く度に悲鳴をあげざるを得ませんでした。」
「電気拷問は焼き鏝で焼き、からからに乾かされ、ぐるぐる巻かれて火に焼かれるものでした。電気拷問は血流を妨げ神経を引っ張り、ついにはバラバラにしてしまうようでした。」
それでもイ氏は自身は電気拷問はもちろん一切の拷問技術を行わなかったと主張した。
‘関節外し’ ‘ボールペン芯挿し’ ‘鶏の丸焼き’等のようなイ氏の専売特許と知られた拷問技術に対しても「拳でこづいたり柔道の技を利用して背負投げ程度はした。それを拷問と言うなら弁解はしないが、それ以上の苛酷な行為はなかった」として全面否認した。それと共に彼は「すべての手段を動員しても尋問出来なければ、しかたなく強圧尋問をすることになる」として自身の行為を強圧尋問だと言った。
彼は「過去の尋問過程で暴れまわる被疑者数人を腕力で制圧し、腕が折れる場合があったりした」としながら「おそらくそういうエピソードのために私に‘技術者’という呼称がついたようだ。だが、そういうケースは被疑者を制圧する過程で十分にありえる事故」と主張した。
彼は公安事件に関連した人々が拷問を受けたと主張するのは、自分の合理化のためだと強弁した。
「公安事件に関わった人々は秘密結社などの組織に所属している。調査を受けた人々の相当数は該当組織の機密を当局に提供する条件で解放された。実際、組織に復帰した後に扱いが以前と変わらないだろうか。‘背信者’と言われないためには秘密漏洩に対する正当な言い訳をしなければならない。結局‘拷問に勝てずに’という返事が一番妥当ではないか。」
彼はまた、パク・ジョンチョル拷問致死事件と北に拉致された漁夫キム・ソンハク事件などは自身がした仕事ではないが、「言論は拷問という単語さえ出てくればイ・グンアンのせいにした」とし無念を訴えもした。
イ氏は<日曜ソウル>と1.2回インタビュー記事で長期にわたる逃避生活と収監生活中に自身が体験し感じた家族愛と父の情を打ち明けもした。
彼は「家族たちの前で私はただの罪人」とし「拷問技術者の家族と後ろ指をさされ正常生活が不可能だった」と話した。特に収監生活中に亡くなった次男に対しては格別の父の情を表わしもした。
「二番目が3人の息子の中で特に優しかった。毎週面会に来た次男ががある日‘お父さん、私は長くは生きられないようです。病院で心電図検査をしたけど結果が良くありません’として沈痛な表情をしたと言った。普段から糖尿があったりしたが年齢が若く(当時39才)まさかと思った。‘親の前でつまらないたわ言を言うな’と叱ったがちょうど一ヶ月後に心筋梗塞で亡くなった。臨終も見届けられなかった。」
また、一番下の息子に就職先をあたってみてやろうと言うと、「死んでもお父さんの世話にはならない」として「労働に出かけて行く末っ子が薄情ながらも胸が痛む」とイ氏は打ち明けた。
2008年正式に牧師となったイ氏は「当然イ・グンアン牧師に間違いない。警監査は30年前の肩書に過ぎない」とし、現在の牧師活動に満足感を示した。
イ氏は1998年、暗く湿っぽい天井で生活し宗教に帰依することになったと話した。「ある日亡くなった父親が懐かしくなった。父親は篤いクリスチャンだった。自然に父親の手あかがついた聖書に手が行った。以後10年間ノートに3400を越える聖書の一節を手で書き写し勉強した。自首を決心したのも聖書の勉強をしたおかげだ。ヨハネの第一の手紙1章9節に‘もし,私たちが自分の罪を言い表わすなら,神は真実で正しい方ですから, その罪を赦し,すべての悪から私たちをきよめてくださいます。’との一節がある。このお言葉を書き取って私もやはり自首して改心しなければならないという決心か定まった。」
しかしイ氏の改心が真の意味を持っているだろうか?
彼は‘時間を戻して過去に行くならば他の選択をしなかっただろうか’という<日曜ソウル>記者の質問に「いや。今直ちにその時に戻ったとしても私は同じように仕事をするだろう」と話した。「当時の時代状況では‘愛国’であったから。 愛国は他人に押し付けられることではない」と自身の過去の行跡に強い自負心を表明した。
これに対して去る4年間、1980年代の拷問被害者の心理相談を通じてイ・グンアン氏をはじめとする拷問技術者のありさまをあまりにも詳しく知っているという精神科医師チョン・ヘシン マインドプリズム代表は11日、ツイッターに「イ・グンアン、あなたが牧師ですか? イエスが泣きます」と怒りを表わした。
ツイッターでも「ア...教会に通うことをそこまで恥ずかしくさせるんだな」(ツイッターID@i***) 「こういう人間が反省ということをするはずがないだろう」(@malss**) など激しい反応があふれた。
キム・ドヒョン先任記者 aip209@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/509750.html 訳J.S