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「善良な私たち」に対する幻想を破壊せよ/朴露子コラム

原文入力:2011-01-02午後06:26:38 (1833字)
 
←朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhotov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

近代 東アジアの偉大な文豪 芥川龍之介(1892~1927)は次のように意味深長な文を書いている。
「暴君を暴君と呼ぶことは危険だったのに違ひない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危険である。」 どんな意味なのか。伝統社会において知識人の最も危険な課題は「権力者に真実を言うこと」であった。暴君を「暴君!」と呼んで配流され淋しく死んでいくとか、刑場の露と消えることがしばしばあったからである。しかし、現代社会においては権力者に向かって進言することは昔のような意味は持たない。一面において民主化された社会では当局者たちに進言して「酷い目にあう」危険性は減ったが、その一方でこれといった效果もそんなには期待できなくなってしまったのである。

第一に、今日のように極度にシニカルな支配者たちは、真実が分からなくて無茶なことをしでかすわけではまったくない。「4大河川殺し」をゴリ押ししている人々は果たしてそのプロジェクトが環境にやさしく収益性も高いと本気で信じているのであろうか。その実態を知りながらも当面の利害関係で動いているだけである。

第二に、支配者を眺める一般人たちの視線も極度にシニカルなのである。李明博を大統領に選んだ多くの有権者たちは果して彼のことを「聖人君子」と信じて投票したのか。その実態を知りながらも、彼が「成長」をもたらしてくれるかもしれないという一縷の希望を抱いて票を投じただけである。権力者たちもひたすら目の前の私利私欲を追い求め、大衆も「成功」さえすれば破廉恥な奸商を「尊敬すべき企業人」と見直すだけの心の準備がすでにできている社会では、権力者たちへの直諌や権力者たちに対する道徳的な批判にはたいした意味がない。私たちにとって道徳はすでに死んでしまったからである。

これより遥かに意味のあることは、奸商たちがメディアを通じて流布する幻想にだまされてしまう大衆に向かって進言することである。伝統社会と異なり、大衆は政治化されており、堂々たる政治行為者として登場しているので、進言の效果はむしろ大きいかもしれない。

しかし、それだけに危険度も高い。甘ったるい嘘に慣れている人々には、進言は常に消化できないほどの苦味として感じられるからである。たとえば、「挑発者北朝鮮に対し、私たちが防御しているのであり正当に懲らしめる権利がある」という権力者たちの言葉に慣れている人々にとって、異なる視点から南北の状況を説明すればその反発は激しいかもしれない。

南側の立場から少し離れた角度で眺めれば、前政権が北朝鮮と交わした約束を勝手に取り消したのみならず、「北朝鮮崩壊」の場合、北側の領土をその住民の意思に関わりなく吸収することをアメリカと議論している当局者たちに向かって いかなる牽制もできない「私たちの誇るべき」大韓民国こそが広い意味においての挑発者である。

「私」自身の属する「私たち」こそ正義の味方ではないということは、常に心を悩ませる、受け入れにくい真実である。誰にも所属集団を肯定することにより自己確認をしようとする欲望が内在しているからである。しかし、「私たち」の大韓民国に属している悪徳業者たちが、バングラデシュの労動者に最低賃金を下回る薄給で搾取し、結局は労動者たちの蜂起を誘発したことを目にしながら、「私たち」だからと言って無条件に肯定することは単に愚かであるのみならず、「私たち」と同じ国籍を持つ搾取者たちによる国際的な被害者たちを冒涜することでもある。実際に単なる国際的な野獣にすぎない「私たち」の国民国家に対する幻想が残っている限り、「私たち」は絶えず他者を被害者にすると同時に、自分たちも資本の奴隷の位置にいつまでも安住し続けるであろう。

たとえ聞き入れ難く心を悩ませる話であっても、利潤だけを追い求め正義を切り捨てる国家である大韓民国を支えている、競争と搾取に慣れている柔順な奴隷である私たちの実際の状況に対する進言が大衆化されなければ、奴隷の状態から抜け出ることは不可能だろう。

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/456820.html 訳J.S