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閉ざされた社会とその奴隷たち【寄稿】

登録:2025-09-05 22:50 修正:2025-09-06 13:21
今はまさに「閉ざされた社会」の時代であり、人は誰もがこの閉ざされた社会の自発的奴隷だ。パク・チャヌクの映画のタイトルのような「仕方ない」という諦めと、「どうにかなるだろう」という無気力だけで日々を生きながらえている。韓国社会の姿もこのような「閉ざされた社会とその奴隷たち」の典型だ。…韓国社会は欲望と期待と同じくらい挫折と不安がグラグラと沸き立つ溶鉱炉のようだが、それは巨大な鉄の蓋で覆われている。 
 
キム・ミョンイン|文学評論家、仁荷大学名誉教授
//ハンギョレ新聞社

 カール・ポパーは、ファシズムが敗北し、もう一つの全体主義である共産主義体制が台頭していた第2次世界大戦の直後に出版された著書『開かれた社会とその敵』で、民主主義社会こそ人間の自由と可能性を完全に広げられる「開かれた社会」だと主張しつつ、歴史は定められた経路に沿って発展するという歴史主義理念と、特定のエリートによる社会支配を前提とする全体主義思想と体制を、その開かれた社会を脅かす「敵」と規定している。そして彼の考えは、1990年代初めの現実の社会主義諸国の没落と自由主義的資本主義体制の大勝利によって劇的に立証されるように思われた。資本主義後はないとしたフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』はおそらく、この『開かれた社会とその敵』のより楽観論的なバージョンだろう。

 しかし、果たして21世紀も4分の1を経た時代を生きる私たちは、開かれた社会に生きているのだろうか。現在、20世紀的な意味でのファシズムや共産主義のような全体主義体制は見つけがたくなっており、一部の国を除くと全世界が政治的には民主主義、経済的には資本主義の体制を維持しており、その資本主義は資本と労働力の自由な移動にもとづいたグローバル化された新自由主義的システムに統一されているという点で、前世紀に比べて明らかに「開かれている」と言えるだろう。しかし、私たちは本当に、未来のよりましな暮らしに向かって開かれている世界に生きているのだろうか。人類は自らの努力で少しずつ世の中を改善していっているのか。少なくともそのような希望を抱いて生きているのか。不幸にも、そう答えられる人間は誰もいないようだ。豊かさも自由もますます少数のみに許されるぜいたく品になり果て、絶対多数にとっては底の見えない剥奪感と欠乏感、不自由と拘束感ばかりに抑えつけられている世の中だ。何よりも、もはや新たな世界はやって来そうにないという考えがまん延する世の中は、そのような憂うつな社会は、果たして開かれた世界、開かれた社会なのだろうか。

 新自由主義時代の資本主義は、人間の物質的生産力が極限に達した時代の資本主義だ。産業革命後、人間は人類全体の暮らしに必要な水準以上の財貨を生産し、今や現状を維持するだけでも地球上のすべての人間が豊かに暮らせる段階に達した。これ以上の新たな生産は利潤を得ること以外には意味のないものだ。人工知能(AI)のような最先端の商品は、果たして人類の普遍的な生活の質をどれほど増進させられるだろうか。それは単に成長という名の利潤創出のために考案された特殊な財貨に過ぎない。それは、初めて完全な分かち合いと共生のための物的土台を完成したこの世界を、無理やり競争と利潤創出と不平等の支配する古い状態に押しとどめておくことに貢献する一種の幻覚商品だ。しかし支配階級は相も変わらず新たな成長動力の必要性を叫んでおり、成長中心体制を支える競争と自己責任と勝者独占と脱落と排除を当然視する新自由主義イデオロギーは、ほぼ宗教的な宿命論の水準で人類の脳裏を支配している。そうしている間に、地球環境は長きにわたる搾取に耐え切れず日増しに悪化しており、総体的没落を告げる沈黙のカウントダウンはすでに始まっているようにみえる。

 前世紀末までは、資本主義は民主主義に対する信頼を基礎として社会主義と代案体制の長所を吸収し、自己矛盾と不条理を乗り越えられるようにみえたし、革命に寄らずとも持続的な改革と修正によって自己弁証していけるようにみえた。しかし、今は資本主義の自己弁証の希望はもはや期待できず、他の代案もすべて無力化されている。特定の独裁者がいるわけでもないのに、誰もが自ら不当な支配を受け入れている内面化された全体主義の時代、より良い世の中が到来するという甘美な歴史主義的幻覚よりも恐ろしい没歴史的白昼夢に満ちた時代、今はまさに「閉ざされた社会」の時代であり、人は誰もがこの閉ざされた社会の自発的奴隷だ。パク・チャヌクの映画のタイトルのような「仕方ない」という諦めと、「どうにかなるだろう」という無気力だけで日々を生きながらえている。

 韓国社会の姿もこのような「閉ざされた社会とその奴隷たち」の典型だ。韓国社会は、植民地体験と分断、圧縮的な産業化とやはり圧縮的な民主化、驚くべき成長・蓄積とそれゆえの驚くべき両極化、そして新自由主義統治の極端化を経ている。それによってこの社会は欲望と期待と同じくらい挫折と不安がグラグラと沸き立つ溶鉱炉のようだが、それが巨大な鉄の蓋で覆われている。出口がないのだ。このような社会は危険だ。新自由主義資本主義体制とその全面的支配こそ、この閉ざされた社会の最もはっきりとした敵だが、この敵には具体的な形もなく、立ち向かって勝てる方法もたやすくは見つからない。だから、その中に閉じ込められた奴隷たちは互いに戦う。挫折と落胆、疲労と不安から生じた怒りと憎悪と嫌悪の情動が、激しく互いに対して発射される。この敵対的な情動に左派・右派の区別はない。聖域である資本家階級のみが例外であるに過ぎず、保守勢力と進歩勢力との間、男女間、世代間はもちろん、同一勢力、同一ジェンダー、同一世代内でも大小の違いによって対立と嫌悪と排除のメカニズムが細かく作用する。理性的な省察も、対話や意思疎通もなかなか割り込む余地がない。

 共に目指すべき代案もなく、誰もが守るべき基準もないこのようなミクロ的な敵対性のまん延状態を、どうすべきなのか。絶望的だが、まったく希望がないわけではない。昨冬から春にかけてのめちゃくちゃな内乱事態を前にして、民主共和政の基本秩序を守るために韓国社会の絶対多数が連帯した記憶と経験からはじめるのだ。あの非常事態の中で機能した民主共和政を守るという熱望を急進化するのだ。ご大層な代案体制やものすごい革命的企画が必要なのではなく、私たちのよく知る憲法的なあらゆる価値を再確認し、それにもとづいて社会を再構成する作業だ。逆説的だが、それでもこのような敵対的な情動は、無関心や無気力よりも健全なのかもしれない。これらの行き場を失ってさまよう怒りと憎悪を、この民主主義の急進化という課題に集中させることができれば、韓国社会はいくらか「開かれた社会」に近づくだろう。そうして、私たちはこの諦めと無気力の奴隷状態から少しは抜け出せるだろう。

//ハンギョレ新聞社

キム・ミョンイン|文学評論家、仁荷大学名誉教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1217022.html韓国語原文入力:2025-09-04 19:02
訳D.K

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