英国の人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザーは、自著『金枝篇』で「古代王国の政治を、君主のためだけに人民が存在する専制政治だと考えるのは誤り」だと述べている。逆に、「君主は人民のためだけに存在し、任務を果たせなければ不名誉にその地位を追われるか、命を保つことすらできない存在」であったことを、多くの事例をあげて示している。中国の史書『三国志』の魏志東夷伝の扶余の条にも「扶余の古の風俗では、干ばつや梅雨が続いて五穀が実らなくなると、その罪を王に被せて『王を正しく変えるべきだ』、あるいは『殺すべきだ』と言った」という記載されている。王が虚弱になるのを防ぐために、5年または12年ごとに殺して新たに選ぶ国もあった。もともと王は、共同体と構成員の生に無限の責任を負う存在だった。
征服国家の膨張は王権の強化の過程でもあった。王位は世襲され、呪術に取って代わって精巧化した宗教と政治理念は、王に民の面倒をよく見よという道徳的責務だけを残した。519年間に27人の王が統治した朝鮮にも、民の暮らしを困難に陥れた多くの王がいた。両班士大夫(官僚を担った支配階級)たちは2人の王を引きずり下ろしたが、処刑はしなかった。かなりの数の民が、兵役からも除外され、国ではない所有者に身分税(身貢)を納める奴婢(ぬひ)として生きた。
「民が主」である民主共和制は、朝鮮が滅び、民の議会設立要求をついに踏みにじった王(高宗)が死した後に、大韓民国臨時政府という帆もいかりもない小舟として生まれた。共和は王のいない政治体制、民主も代表者を国民が選出するという意味を超えることはできなかったが、1894年の東学農民戦争、1898年の万民共同会、1919年の3・1運動で流れた民の血が川を成してようやく、その舟は浮かぶことができた。
光復後、民主共和政が成立した。だが、国民が選んだ大統領たちは、国民主権を蹂躙(じゅうりん)し、終身王を夢見て軍と情報機関を背景に君臨した。彼が殺された後、「ソウルの春」を全斗煥(チョン・ドゥファン)がまたもや踏みにじった。これらに抗して闘った1960年の4・19革命、1979年の釜山(プサン)・馬山(マサン)抗争、1980年の光州(クァンジュ)民主化運動、1987年の6月民主抗争は、他のどの国の現代史からも見出しがたい「荘厳な歴史」だ。
だから、大統領尹錫悦(ユン・ソクヨル)による12・3親衛クーデター企図はあまりにも衝撃的だ。記憶から消えつつあった非常戒厳を43年ぶりに引き出しから引っ張り出して国会を無力化し、報道機関にくつわをはめ、「尹-キム王政」を打ち立てようとした。発想に驚いて気絶しそうだ。どうしてこの国の政治は、あのようないかれた人間を、専制王と同様の力を持つ大統領に選ぶことになったのだろうか。多くの人が悔しさとショックで涙したことだろう。
尹は経済と外交をはじめとして、国政運営に無能かつ無責任すぎた。意地を張るようにして押し通した「減税・緊縮」財政政策は民生を破壊した。支持率は2年目に30%台に、3年目には20%台に落ちた。さらに配偶者キム・ゴンヒの問題の処理で「公正と常識」をないがしろにしたため、事実上国民から弾劾された境遇だった。すると、自身に背を向けた主権者に向かって銃口を突きつけるという、いかれた所業に及んだ。
非常戒厳と同じくらい驚くべきは、与党「国民の力」といく人かの長官を含む高位公職者の動きだ。内乱の首魁(しゅかい)に対する弾劾審判と捜査を妨害するのに余念がない。憲法裁判所の弾劾決定を遅らせ、できる限り時間を稼いで政局を揺さぶる機会をうかがおうという思惑が透けて見える。民主共和国の公職者ではなく、いかれた王の忠実な臣下として行動している。「王と共に殉葬」されることを望んでいるのでなければ理解しがたい態度だ。
あの日以降、私たちは崩壊の危機に直面する民主共和制を本来の姿に完全に戻すという課題を背負っている。制度の危機を招いた原因を見つけ出して矯正することで、さらに一段階成熟させるという歴史的課題も課されている。大統領に過度に集中する権力を分散する改憲もその一つだ。しかし、当面は不可能なことになりつつある。100を超える議席を持つ国民の力の語る改憲論には、12・3内乱に対する省察が一握りも含まれていないからだ。
着実に積み重ねられてきた市民の民主主義の力量が、12・3内乱を挫折させた。しかし、内乱の首謀者の権力を完全に剥奪し、拘束・収監するまで、あの多くの国会議員と高位公職者らがたわごとをやめるまで、内乱は平定されない。そのことを骨身にしみて感じる日々だ。主権者市民は、それぞれの場をしっかりと守らなければならない。
チョン・ナムグ|先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )