その日の夜は天気がよく、月の光は真昼のように輝いていた。米国人医師ホレイス・アレン(1858~1932)は翌日の1884年12月5日付の日記に「人影が少ない通りは静かで、月の光に照らされた街の姿はとても美しく、散歩するために門の外に出た」と書いた。外出を終えて午後10時半頃に帰ってきて寝床につくやいなや、米国公使館の職員が騒がしく扉を叩いた。大事件が発生したに違いなかった。
朝鮮は、1882年5~6月に西欧列強と国交を樹立した後、急増した外交・通商業務を処理するために、同年12月から駐天津ドイツ領事館副領事のパウル・ゲオルク・メレンドルフ(1847~1901)を雇用した。急いで彼の家に到着すると、右耳から上まぶたまでを刃物で切られた傷を負って瀕死の人がいた。明成皇后の義兄の閔升鎬(ミン・スンホ)の養子で、高宗夫妻の信認を独占した「青年勢道」閔泳翊(ミン・ヨンイク、1860年~1914)だった。金玉均(キム・オッキュン、1851~1894)ら急進開化派が「閔泳翊以下の事大党の巨頭を除去し、清国の干渉を断ち切り、独立国の顔を立てる」(朴泳孝、1926年6月『臣民』14号)という大義名分を掲げてクーデターを起こしたのだった。三日天下で終わった甲申政変だった。
2年前の壬午軍乱の際、清が大規模な軍事力を投入して鎮圧し、興宣大院君を中国に強制連行した事件は、朝鮮に大きな痛みを残した。清はこの過激な措置を取りつつ、かつて元が高麗の忠粛王と忠恵王を中国に流刑として送ったことがある前例を取り上げた。この論理に従えば、清は決意すればいつでも高宗すら廃位できた。
この暴力的な内政介入は、朝鮮の支配層に深刻な分裂を引き起こした。朝鮮の実務官僚であり「穏健開化派」である金弘集(キム・ホンジプ)・金允植(キム・ユンシク)・魚允中(オ・ユンジュン)らは、突然の開放と軍乱で崩れかけた国を立て直すためには、清に頼らざるをえないと考えた。彼らにとって清の存在は、現代の韓国人にとって韓米同盟が持つ意味に似ていた。まずは宗主国を頼って力を強めなければならなかった。これに対抗した金玉均・朴泳孝(パク・ヨンヒョ)・徐光範(ソ・グァンボム)・洪英植(ホン・ヨンシク)ら「急進開化派」は憤りを禁じえなかった。壬午軍乱の直後の1882年9月末、朴泳孝が率いる修信使の一員として日本に行った金玉均は井上馨外務卿に会い、「真に朝鮮で自国の独立を祈る精神を十分に持つ者は、国王、朴泳孝、金玉均の3人だけであり、残りは概して清に頼り安全を図ろうとする者」だと述べた。
清に対抗して自主を回復するのか、当面は保護下で国力を高めるのか。この「難題」をめぐり両者の対立が暴力的な結末につながった直接のきっかけは、朝鮮の慢性的な財政難を解決するための方法論だった。高宗夫妻の贅沢と閔氏一族の腐敗によってすでに食いつぶされていた朝鮮の財政は、開港後さらに悪化した。外国使節の接待、修信使・調査視察団・留学生などの派遣、釜山(プサン)・元山(ウォンサン)・仁川(インチョン)などの開港、国防力強化に必要な兵器購入と新式軍隊の訓練など、費用がかさむところが大幅に増えたためだ。事実上閔氏一族が雇用したメレンドルフは、「まずは緊急の経費のために、(庶民に被害が及ばざるをえない悪貨である)当五銭・当十銭または当百銭を鋳造し、目前の急務を解決するのがよい」だと主張した。金玉均は悪貨の発行は「国の害毒になる」として抵抗した。代案として金玉均が提示したのは、外国から300万円の借款を得るというものだった。この交渉に金玉均と開化党の「政治的運命」がかかっていた。
金玉均は東京に到着した4日後の1883年7月2日、井上馨外務卿と面会した。金玉均は1885年に書いた『甲申日録』で「井上の言葉と雰囲気は以前とかなり違っており、私に対する疑心と忌避がともに表れていた」と書いた。交渉が失敗したのだ。なぜそうなったのか。日本の外務省の記録『韓国借款関係雑纂』内の文章「井上外務卿朝鮮人金玉均ト談話筆記」を通じて具体的な内容を確認できる(原文とキム・ジョンハク『開化党の起源と秘密外交』の翻訳文に基づいて再構成)。安否のあいさつを交わした後、金玉均が切り出した。先に朝清関係に言及したのは、「朝鮮が自主国」であることを主張していた日本から支援を引き出そうとする意図だったのだろう。
「朝鮮は今、独立国なのか属国なのかわからない」
「なぜ貴国自身のことを貴国がわからないか」
「貴国(日本)や米国と対等な条約を締結して独立の承認を受けたが、支那(清)は(ソウルに)兵力を派遣しており、属国として扱っているためだ」
「(清と)過去300年の関係もあるので、今、一朝一夕できっぱりと純粋な独立の形態を備えようとするのであれば、必然的に干戈(武器)で争うことになる。すべてのことを急激にしてはならない。少しずつ傾向を続け、各国が少しずつ独立を援助することを利用し、純粋無欠な独立を図らなくてはならない」
対話は当初のテーマである借款問題に移った。
「国庫が枯渇し、外債を得ることで内部の意見が決まり、貴国に来た」
「どこに使おうとするのか」
「外債を得て、兵備や鉱山などに従事するよう内命(高宗の密命)を受けてきた」
これに対する井上の返事はこの上なく冷たかった。冒険的であり大げさな物言いの金玉均を嫌悪したようだ。
「先日(1882年12月)の(横浜正金銀行から貸し出した)17万円のうち、まだ余っている資金があることを知っている。また、(その一部について)詐欺にあったこと(金玉均を支援した福沢諭吉によると、2万~3万円を長崎の人にだまし取られた)も知っている。貴下は『不始末ノ人』だ。(中略)この300万円の募集(に協力)は難しい」
借款交渉が失敗して失意に陥った金玉均が頼る手段は「暴力」しかなかった。金玉均を後援すると申し出たのは、日本の在野でかなりの影響力を持つ福沢諭吉と、自由党系の大物政治家の後藤象二郎(1838~1897)だった。後藤は金玉均に「清と朝鮮の間にもし事が起きれば、私の壮士(無頼輩)をそちらに送り、鬱憤を晴らすようにする」としたうえで、「貴下は心配するな」と述べた。後藤が代価として要求したのは、あきれたことに「朝鮮改革の全権」だった。金玉均は「将来、私たちの君主が閣下に下す密勅を得る(玉均将得我君主密勅于閣下)」と返答した。
当時日本では、朝鮮に対する政策をめぐり3つの見解が対立していた。清と協力しなければならないという井上の「消極論」、清との対決を覚悟してでも朝鮮を援助しなければならないという山県有朋陸軍卿の「積極論」、両者の「折衝論」だった。金玉均が心から日本の力を借りて革命をしようとしたのであれば、在野の福沢や後藤ではなく、井上や伊藤博文を説得しなければならなかった。しかし、彼らは冒険的な金玉均を相手にはしなかった。朝鮮のクーデターを助ける場合は清との一戦を覚悟しなければならなかったが、日本はまだ準備ができていなかった。
金玉均が挙兵を本格的に決意したときの駐朝鮮日本公使は、本国から戻ってきたばかりの竹添進一郎だった。竹添は11月12日、金玉均らの政変計画にどのように対応すべきかの訓令を要請した。甲案は「支那との一戦」を覚悟し、「日本党(開化派)を扇動して朝鮮の内乱を起こすこと」、乙案は清との対立を避けるというものだった。当時東京の外務省とソウルの日本公使館の間の文書往復は、東京から長崎までは電信、長崎から釜山または仁川までは定期船を活用した。時間は少なくとも2週間要した。
金玉均は挙兵3日前の12月1日夜に日本公使館に行き、島村久書記官に挙兵日は「10月20日(陽暦12月7日。実際は4日だった)」だと伝えた。「なぜこんなに遅くにか」という問いに「貴国の郵船(連絡船)が仁川の港に到着する前に事を起こす」からだと述べた。日本政府が挙兵を妨げることを予想し、先に問題を起こすことにしたのだ。この予想のとおり、伊藤博文は11月28日、「甲案の趣意は穏当ではない。乙案を裁可する」と回答した。日本が清と一戦を繰り広げることに決意するのは、それから10年後の1894年だ。
34歳の“若造”であった金玉均が行ったことで、あまりにも多くの人が苦しみ、国はふたたび荒廃した。最大の問題は、朝鮮の支配階級内に芽生えた互いに対する「憎悪」だった。国が滅びるまで高宗は金玉均らクーデター勢力の処断に執着した。このあきれた冒険劇が成功したとしても、後日の歴史で確認できるように、「外勢」である日本と「昏君」の高宗が金玉均の改革案にやすやすと従うはずはなかった。
清と日本はやはり、甲申政変の事後処理のために殺伐とした交渉を行わなければならなかった。その結果が1885年4月に締結された天津条約だった。この文書に「将来、朝鮮国にもし重大な変乱が起き、清日両国もしくは一国に兵力派遣が要求される場合、必ず先に相手に行文知照(文書で通知)しなければならない」という内容が加えられた。この条項は9年後に朝鮮を荒廃させる日清戦争の導火線になる。
キル・ユンヒョン|論説委員 大学で政治外交を学ぶ。東京特派員、統一外交チーム長、国際部長を務め、日帝時代史、韓日の歴史問題、朝鮮半島をめぐる国際秩序の変化などに関する記事を書いた。著書は『私は朝鮮人カミカゼだ』『安倍とは誰か』『新冷戦韓日戦』(以上、未邦訳)『1945年、26日間の独立―韓国建国に隠された左右対立悲史』(吉永憲史訳、ハガツサ刊)などがあり、『「共生」を求めて』(田中宏著)『日朝交渉30年史』(和田春樹著)などを翻訳した。人間に最も必要な力は、自らを冷静に振り返る「自己客観化能力」だと信じている。