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[寄稿]日本企業に対抗して韓国労働者を助ける…私たちは尾澤さんになれるだろうか

登録:2024-01-03 08:49 修正:2024-05-08 06:59
イ・サンホン|国際労働機関(ILO)雇用政策局長
韓国放送(KBS)ドキュメンタリー・インサイト「日本人オザワ」より=KBS提供//ハンギョレ新聞社

 濃い霧に包まれた晩秋の夜、ジュネーブ中央駅に電車がなんとか停止した。10人ほどの韓国人が注意深くプラットホームに足を踏みだし周囲を見回した。私は急いで近づき、「遠路はるばるようこそ」とあいさつした。一行の目には嬉しさと断固さが重なってにじんでいた。「骨を埋める覚悟でここに来ました」。20年前、韓国ネスレの労働者のスイス遠征闘争はこうして始まった。

 正直なところ、私はその悲壮で断固とした覚悟が不安だった。緻密な戦略もなく、頼るべきところのないスイスに来て、見通しのない闘いをどうするつもりなのか。一行を迎えに来ていた国際食品労連の関係者の表情も不安そうにみえた。だが、彼らの闘いにはためらいがなかった。労働者の賃金引き上げ要求に対してネスレは、韓国工場の海外移転という脅しで対抗し、100日以上ストライキが続いており、これを問い詰めるためにネスレ本社を訪れに来たということを、休む暇もなく伝えた。

 困難な闘いだった。金銭的負担も大きかったうえ、何より「韓国で解決すべき他人事」だと考えるスイスの世論を動かすことは容易ではなかった。スイス本社はびくともしなかった。しかも、一行は現地の言語をまったく知らなかった。助けの手はあったが、長く期待できるようなものではなかった。妻と私も力を貸したが、心配が先行するのは仕方なかった。幸いなことに、遠征闘争のわずか10日後に韓国で交渉が妥結し、遠征闘争を終了できた。私たち夫妻は感激しながらも安心した。

 突然このことが思い出されたのは、先日放送されたドキュメンタリー「日本人オザワ」のためだった。尾澤さん夫妻(尾澤孝司さんと尾澤邦子さん)は、1990年代から日本企業を相手に遠征闘争に来る韓国の労働者たちを助けた。若い頃に個人的な試練に直面しながらも「闘う人たち」との連帯をライフワークとしてきた夫妻は、ある意味、最も困難な道を選んだといえる。「祖国」日本の企業を相手に闘う「外国の労働者」と日本の領土で肩を並べること。それは、他国で苦しむ政治家や労働者のために自分の国で声と資金を与えるより、はるかに大変なことだ。しかも、韓国と日本ではないか。

 始まりは、1989年にスミダ電機が韓国工場を閉鎖して従業員を全員解雇するという決定を記した1枚のファックスだった。韓国ではどうすることもできない労働者代表団は、「死ぬことはできても、敗北はできない」という血書を残して日本に向かった。飛行機も初めて乗る状況だったため、闘う覚悟以外には何の準備もなかった。この暗たんとした状況で、妻の邦子さんは胃がんの手術からまだちゃんと回復してもいない状態で、夫の孝司さんとともに韓国から来た労働者たちを全力で助けた。労働市民団体だけでなく地域社会を組織した。学生や地元のおじいさんやおばあさんも出てきた。労働者代表団はたいして持ちこたえられないだろうと判断して「無視、無対応、我慢」戦略に頼っていた会社に、日本の地元の市民たちは「まさにここに365日間闘う人たちがいる」というメッセージを強烈に伝えた。

 代表団の闘いはさらに強力だった。尾澤さん夫妻をはじめとする日本の市民たちの助けのおかげで、ハンストさえも「祭り」のようなものだったという。闘いは何と206日間続き、最終的にスミダ本社は降参した。韓国の労働者と日本の市民はキム・ミンギの抵抗歌「朝露」を一緒に歌った。いつものように、尾澤さん夫妻が先に歌った。そして、勝利の興奮が冷めやらぬ頃、妻の邦子さんはすぐに韓国に語学研修に行った。韓国の労働者たちの闘いをより体系的に支援するためには、韓国の言語、社会、歴史をもっと理解する必要があると考えたためだ。

 その後の尾澤さん夫妻の「年代記」は華やかだ。日本企業との対話と交渉のために韓国の労働者たちが玄海灘を渡ってくるたびに、彼らを一番最初に迎えるのは尾澤さん夫妻だった。組合員が苦労して集めた闘争資金は節約すべきだと言いながら、ククス(韓国麺)のようなものを売って補給闘争をするようにという“小言”も欠かさなかった。この夫妻の、凛とした執拗な声を聞かなければならなかった企業の名簿も年々長くなった。シチズンセイミツ、韓国山本、韓国サンケン(サンケン電気)、韓国ワイパー(デンソー)、韓国オプティカルハイテック…。

 警察と対抗して苦労することは日常茶飯事だった。数年前、新型コロナウイルスの拡散で遠征闘争が不可能だったころ、夫の孝司さんは韓国で解雇された労働者たちに代わって毎日会社の前に行って対話を要求し、逮捕後に拘束された。7カ月間の刑務所生活の末に保釈で身柄を解かれた。その間、妻の邦子さんは乳がんの手術を耐え抜いた。寒い冬を過ごす孝司さんが保釈された日、邦子さんは花束を持って待っていた。そして、明るく笑って抱きしめた。孝司さんはありがとうと言いつつ「韓国の方々の闘いはどうなっているのか」を心配した。

 韓国の労働の現実は今もなお苦しいが、一緒に力をあわせて闘ったおかげで良くなったことも少なくない。時には中で、時には外で、「骨を埋める」「敗北できない」という覚悟で闘ってきたおかげだ。そして、外部の助けも多かった。内部事情が困難になるたびに、外部の力はさらに高まった。国際的な名声がある団体と個人の支援は、政治的な力と世論効果を発揮した。

 だが、尾澤さん夫妻のような人たちもいる。韓国語の歌や、闘争の際に踊るダンスも習い、韓国の労働を自分の生きざまのなかにすべて引き込んだ外国人もいる。自分が生活する土地で、苦しんでいる他人のために自分の国を猛烈に追い詰める人生を黙々と続けてきた人たちもいる。日本だけでなく欧州にも米国にもいる。私たちがあえて知ろうとしなければ、すぐに忘れられてしまうであろう人たちだ。

 「先進国韓国」は世界で猛烈だ。韓国から資金を引きだすための競争も激しい。驚嘆の声も、破裂音も聞こえる。労働条件の改善要求に暴圧的な反応を示した韓国企業のニュースも後を絶たず、夜中に荷物をまとめて別の場所に消える奇怪なこともある。いつか、こうした企業の労働者たちがソウルを訪れに来るだろう。決然たる覚悟の他には何もない彼らは、ソウルのどこかの街頭でつたない韓国語で叫ぶだろう。すでにそのようなことがあった。

 そのとき、私たちは尾澤さんになることができるだろうか。尾澤さん夫妻のような人が手を差しだして力を貸そうとするとき、その手をぎゅっと握ることができるだろうか。

//ハンギョレ新聞社

イ・サンホン|国際労働機関(ILO)雇用政策局長 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1122663.html韓国語原文入力:2024-01-02 15:57
訳M.S

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