筆者が「京郷新聞」の記者だった2010年初めのことだ。社内に恐ろしい噂が流れた。国家情報院の職員が企業各社に電話をかけ、「京郷新聞に広告を載せましたね。拝見しました」と言ったとのことだった。ある企業の広報室の関係者が同紙に知らせた事実だ。実際、当時大手企業からの広告受注額は少なからず減少し、記者たちは来月の給料を心配しながら記事を書いていた。李明博(イ・ミョンバク)政権時代のことだ。
信じがたいこのうわさは後に事実と判明した。「2017~2018年 国情院の不法査察に関する検察捜査記録」が最近マスコミに公開された。2017年に検察の調査を受けたある国情院職員は、2010年当時、大統領府広報首席室傘下の言論秘書官室から「革新系の特定日刊紙の広告受注動向および牽制案」を調べるよう指示されたと明らかにした。別の国情院職員は「京郷新聞が政府に批判的なので、対策を用意するためだったと思う」と供述した。当時、大統領府広報首席は「東亜日報」出身のイ・ドングァン氏で、言論秘書官は「京郷新聞」出身のパク・フンシン氏だった。もちろん、彼らは国情院職員の供述が事実無根だと主張している。
イ氏が李明博政権の広報首席だったころ、国情院が作成した文書の題名は以下の通りだ。「韓国放送(KBS)の組織改編以後の人的刷新推進案」、「文化放送(MBC)の正常化戦略および推進案」、「ラジオ時事番組による偏向放送の実態および考慮事項」、「放送局の地方選挙企画団構成の実態および考慮事項」など。不都合な報道に対する問題提起を越えて、公共放送の批判的ジャーナリスたちを一掃し、政権寄りの人物を揃えるという具体的な実行策が文書を埋め尽くしていた。文書の上段には「広報首席室要請事項」と書かれているが、イ氏は本人が指示して作成された文書ではないと主張している。
本人は否定しているが、イ氏が広報首席として働いた李明博政権のマスコミ掌握は、マスコミを手なずけようとした従来の試みとは次元が異なる。どの政権であれ、政権寄りのメディアには特恵を与え、公共放送を意のままに動かそうとする試みはあった。ただ、過去には政権交代になっても公共放送内部で革新と保守が共存していた。ところが、李明博政権は自分たちの言うことを聞かないジャーナリストを「抹殺」しようとした。
2010年10月当時の言論労組の調査結果によると、李明博政権発足後に懲戒を受けたジャーナリストは180人に達した。8人が解雇され、停職30人、減給32人、裁判中のジャーナリストも61人だった。朴正煕(パク・チョンヒ)維新時代の1974~75年の自由言論実践運動当時の「東亜日報」(134人)と「朝鮮日報」(32人)における大量解雇と、1980年全斗煥(チョン・ドゥファン)新軍部の言論統廃合による大量解雇(717人)に匹敵する数字だ。イ・ドングァン時代からマスコミの路線競争は生存闘争と化し、報道が荒れて政派的になった。マスコミ版イカゲームだ。
「マスコミ掌握技術者」のイ氏が放送通信委員長としてまもなく帰ってくる。イ・ドングァン放送通信委員長候補は1日「私は20年余りをマスコミ界に従事したジャーナリスト出身であり、自由民主の憲政秩序で言論の自由が最も重要な価値だと考えている」と語った。これも尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領に似ている。昨年4月の「新聞の日」に、当時の尹錫悦次期大統領は「言論の自由は韓国社会をより良い方向に変化させる大きな原動力」だと述べた。二人とも言論の自由に言及したが、言論の自由を守ることに関心がないのは、これまでの行動で十分示してきた。
イ氏の強み(?)といえば、マスコミ掌握を大々的に進めたにもかかわらず、いかなる法的、政治的責任も取らなかったことだ。このような点で、尹錫悦政権と非常に相性の良い人物といえる。ソウルの真ん中にある梨泰院(イテウォン)で159人が下敷きになって死んでも、ずさんな洪水管理で忠清北道五松(オソン)の地下車道で多くの人が溺死しても、無理な水中捜索で海兵隊兵士が急流に流されて亡くなっても、現政権では誰も責任を取らない。過去のように、イ氏は逃げ道を作ろうとするだろう。
しかし、今回は変わらなければならない。放送掌握の前哨戦として、KBSやMBC、教育放送(EBS)などの公共放送の理事を明確でない理由で解任しようとする手続きが着々と進められている。放送通信委員会が法的手続きを守らないという指摘もある。違法の証拠を集め、記録を残さなければならない。過ちについては正当な代償を払わせなければならない。これは革新と保守、左派と右派の話ではない。常識と非常識の問題だ。常識的な国民とジャーナリストの連帯が必要な時だ。