本文に移動

[寄稿] 韓国における「教権」の崩壊と政治的市民権

登録:2023-08-02 06:43 修正:2023-08-02 09:39
教員の自殺と不安は、韓国教育の総体的な乱脈ぶりを示している。教権がこのように地に落ちた根本的な原因は、韓国の教員たちが政治的市民権を剥奪されているためだ。韓国の職業群の中で政治的権利が制限されるレベルを超えて完全に剥奪されている職業は教員(と公務員)しかない。 

キム・ヌリ|中央大学教授(独文学)
黒い服を着て黒いマスクを着用した教員たちが7月29日午後、ソウル光化門近くで開かれた「7・29公教育正常化のための集会」で、安全な教育環境作りなどを要求している=キム・ギョンホ先任記者//ハンギョレ新聞社

 教育地獄というが、ここまで残酷だとは思わなかった。殺人的な猛暑の中で集まった数万人の教員たちの切実な心情が伝わる。23歳の若い教員の死を前にして、教育者の一人として恥ずかしい思いだ。どうして学校でこのようなことが起こり得るのか。

 ソウル瑞草区(ソチョグ)のある小学校で起きた事件を機に、教育が全国民的な関心事になった。問題の核心は教権(教員の教育権)の崩壊だ。最近の世論調査を見ると、崩壊の実状は実に衝撃的だ。教員の99%が教権侵害を経験したと答えており、93%は生徒指導中に児童虐待で通報されることを恐れているという。教員の87%がこの1年間辞職や転職を考えたことがあると回答しており、27%が精神科治療を受けたことがあるという。

 今、教員たちは保護者のパワハラと過剰な苦情、児童虐待法による通報を恐れ「戦時看護師レベルのストレス」の中で子どもたちを教えている。これは教育ではない。したがって、今回の教員の自殺が示すのは、一個人の死ではなく、教権の崩壊だけでもない。それはまさに教育の死である。韓国の教育が死亡したことを知らせる訃報だ。

 教員の自殺が浮き彫りにしたのは、教権の崩壊を越えて教育の総体的な乱脈ぶりだ。そのため、この問題は教員に対する保護の強化という消極的な政策や、生徒人権条例の廃止などの退行的な措置では解決できない。事態の本質を見なければならない。教権の崩壊の根っこを辿ってみなければならない。

 教権が地に落ちた根本的な原因は、何よりも韓国の教員たちが政治的市民権を完全に剥奪されているためだ。彼らが政治的意思を表現できず、政治活動ができず、被選挙権もない政治的禁治産者という事実、これが問題の核心である。

 周知のとおり、韓国民主主義は「アジア民主主義の灯り」で、「世界民主主義の模範」として高く評価されている。しかし、韓国の教員だけは民主主義の辺境で依然として「政治的賤民」状態に置かれている。市民の最も重要な基本権である政治的市民権を剥奪されているからだ。このような政治的無権利状態は社会的無気力につながり、教育的無力感に転移する。実際、教権の崩壊は過去数十年間にわたり教育界を覆っている巨大な無力感がもたらした必然的な結果だ。

 経済協力開発機構(OECD)38カ国のうち、教員の政治的市民権を完全に剥奪している国は韓国だけだ。ほとんどの国では教員たちは重要な政治勢力として強大な政治的・社会的影響力を行使している。特に、国会内でかなりの影響力を持っている。フィンランドの場合、国会議員のうち教員の割合が20%にのぼる。ドイツも15%で、OECDの平均は約10%だ。概して国家の先進性と教員の代表性は比例する。先進国であればあるほど、議会に多くの教員が座っているのだ。韓国の議会に教員が一人もいないという―2人の元教員がいるだけだ―事実は実に恥ずべきことだ。

 なぜ先進国では教員が強い政治的影響力を持つようになったのか。その理由は簡単だ。教員はどの国でも最も大規模な知識人集団であり、彼らには高いレベルの倫理性が期待されるからだ。今日のように価値と意味、倫理と道徳が失われた時代に、教員集団の知性と倫理性はより一層大きく要求される。

 韓国で教員の政治的・社会的影響力が微々たる理由は、何よりも朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権のためだ。1963年、朴正煕が剥奪してしまった教員の政治的市民権がいまだ回復していないわけだ。李承晩(イ・スンマン)独裁の政治的動員から教員(と公務員)を守るため、民主党政府が1960年に作った「政治的中立の義務」条項を、朴正煕が教員の「政治的市民権剥奪」の口実に悪用したのだ。「中立の義務」を掲げ、「参加の権利」を奪った。以後、韓国の教員たちはなんと60年間にわたり「政治的中立の義務」の罠にかかっている。その結果、彼らは世界が評価する「K民主主義」の華麗な舞台裏でうろつく最後の政治賤民になった。

 教員は国家が保護すべき対象ではなく、政治的禁治産者でもない。教員は教育の主体として国家の発展を先導し、社会の進歩を主導する知識人だ。教員はまた、教育改革の受動的対象ではなく、能動的主体にならなければならない。もはや政治的中立の義務という古いくびきを振り払い、成熟した民主社会の構成員として社会的義務を自覚しなければならない。要するに、教権回復を越えて政治的市民権を復元しなければならない。

 教員の教権回復が教育の崩れた肉体を立て直すことなら、教員の市民権の復元は教育の奪われた魂を取り戻すことだ。教権の回復を越えて市民権の回復を成し遂げることで、死んでしまった教育を再び生き返らせるべきだ。

//ハンギョレ新聞社
キム・ヌリ|中央大学教授(独文学)(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1102609.html韓国語原文入力: 2023-08-02 02:05
訳H.J

関連記事