起きてはならないことだった。しかし、起きてしまった。29日深夜、初めて一報が伝えられた際には、これほどの事態を予想した人は多くなかったはずだ。しかし、現場の救急隊員がいくら全力で引き抜こうとしても、積み重なり絡みあった市民たちをすぐには救助できなかった。一晩中テレビ画面やSNSで現場の状況を見聞きしていた人々は焦燥感にかられ、30日朝、韓国社会は形容しがたい悲痛に包まれた。ハロウィーンを控えたソウル梨泰院(イテウォン)で起きた惨事は、手の打ちようもなく死者数が増えていき、150人を超えた。多くが20代若者と女性だった。
尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領はこの日、国民に向けての談話を発表し、「ソウルの真ん中で起きてはならない悲劇と惨事が発生した」と述べ、「政府は今日から事故収拾が一段落するまで国家哀悼期間に定め、国政の最優先順位を事故収拾と後続措置に置く」と明らかにした。ハン・ドクス首相は梨泰院がある龍山区(ヨンサング)を特別災害地域に指定し、死亡者の遺族と負傷者に対する医療支援金やメンタルケアなどを支援することを明らかにした。また、来月5日までを哀悼期間に定め、ソウル市に合同焼香所を設置することにした。収拾と支援、哀悼、どれ1つ失敗がないよう万全を期さなければならない。
起きてはならないのに起きてしまったことこそ、まさに「惨事」だ。逆に言えば、起きざるを得ないことではないという意味でもある。「事前対策」がよりいっそう重要なのはそのためだ。梨泰院の惨事も同じだったはずだ。社会的距離措置(ソーシャル・ディスタンシング)が施行された昨年のハロウィーンの前後も、梨泰院一帯は大変な人出だった。昨年までさかのぼることもない。惨事前日の28日夜も歩くのが難しいほど押し寄せた人波に押され、通行人が倒れたことがあったが、幸いなことに人命の被害にはつながらなかったという。自治体や警察などがこのような事情を知らなかったのかも疑問だが、いずれの場合でも、災害対策に深刻な弱点があったとみなさざるを得ない。
龍山区は27日、「ハロウィーン対応緊急対策会議」の結果を報道資料として公開したが、人波が集中し発生しうる大規模な事故を考慮した内容にはみえない。このような事故が初めて起きたわけではない。2005年、慶尚北道尚州(サンジュ)でも、公演会場に人が押し寄せ11人が死亡する事故があった。その後、「災害および安全管理基本法」で祝祭事故予防のための内容が強化され、行政安全部も「地域祝祭会場安全管理マニュアル」を設けている。しかし、行政安全部と自治体のどちらも「ハロウィーンは法的には祝祭ではない」として、マニュアルを適用しなかったという。あきれるしかない。
警察も「通常より祭りの熱気が高まっている」と判断したが、現場に配置した人員は137人にすぎなかった。それも、人波による事故ではなく、麻薬や性暴力のような事件・事故に備えたものだった。狭い路地を一方通行形式に変えるだけでも違っていたという指摘も出ている。警察と自治体は、すでに責任の押しつけ合いまでしている。両方を管轄するイ・サンミン行政安全部長官による責任のなすりつけは、さらに深刻だ。イ長官はこの日の合同会見で「警察や消防の人員を事前に配置していれば解決できたという問題ではなかったと認識している」としたうえで、「ソウル市内の各所で多くの騒動とデモがあったため、警察と警備の人員が分散した側面がある」と述べた。事態の原因把握と収拾を主導しなければならない行政安全部長官が、集会やデモを理由にするような発言をしたことについて、与党からも「退くべき」という批判まで出ている。
一方で市民たちは、悲しみをこらえ成熟した態度で事態を見守っている。これまで極限の政争に没頭していた与野党の政界は、哀悼の意とともに、惨事の後続措置に専念することを明らかにした。超党派的な協力により、根本的な制度の補完に乗りださなければならない。米国のジョー・バイデン大統領やフランスのエマニュエル・マクロン大統領ら各国の指導者や世界の市民も、今回の惨事に深い哀悼の意を表している。惨事の現場では、市民や近隣の店員らが被害者の命を救うために心肺蘇生を行い、救助に乗りだしもした。惨憺たるなかでも、これらの人々の献身により、私たちは少なからぬ慰めを得て希望をみる。その慰めと希望が被害者にそのまま伝わることを願う。
真の哀悼は、このような悲痛な事態が再発しないよう、意志を共にすることにあるはずだ。今回の梨泰院の惨事でも明らかになっているように、社会的惨事は一つや二つの原因だけで発生するものではない。事故の原因を一つひとつ捜しだして分析し、過ちを犯した人々に相応の責任を問い、実効性のある再発防止策を求めていく過程がいかに困難であるか、私たちはセウォル号沈没事件などの苦痛を経験をして確認してきた。最終目的地は全員が安全な社会であり、全員が安全な社会は、生命と人権が尊重される文化が固く根付いた社会であるはずだ。改めて被害者に深い哀悼の意を表する。