1864年に息子の高宗が即位し権力を掌握した興宣大院君の李昰応(イ・ハウン)は、翌年、景福宮の再建を始めた。1592年の壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で消失した後、270年以上もの間、ソウルの中心に廃墟として残っていた景福宮を再建することは、あまりにも大規模な事業であるため、過去のどの国王も意欲を出すことはできなかった。外では帝国主義勢力が押し寄せ、内では封建支配の秩序が瓦解し民の生活が疲弊した危機的な状況において、巨額の財政を投入し景福宮を再建するのは無謀なことだった。
国立外交院のキム・ジョンハク教授が書いた『興宣大院君評伝』によると、大院君は「失墜した王室の権威を高め、国の気風を一新する」という名分を掲げたが、実際には景福宮再建を通じて、公式の官職を得られない自分の権力を強化しようとしていた。大院君が景福宮再建のために設けた営建都監は、彼が国家財政を操り、人事に関与する重要な経路になった。再建反対の世論をなだめるため、迷信も活用した。景福宮内の石瓊楼の下から銅杯が出てきたが、その中から、朝鮮建国初期の僧侶の無学大師が大院君の景福宮再建を予言したかのような文言が出てきた。大院君が人に頼み、こっそり埋めておいたものだった。1866年に工事現場で火災が発生し、やっと集めた木材が全部燃えてしまった後は、全国各地の良木や岩、両班の先祖の山林まで無慈悲に伐採し、宮廷の建築に動員した。
工事のために苛酷な徴税を行った。7年間の工事に要した総費用は783万両だったが、そのうち、王室の内帑金(国王の私的な財産)と王族からの寄付金は45万両で、残りの大部分の727万両は民間からかき集めた。最初は富豪から願納銭を収納したが、十分に集まらないため、民から強制徴収した。民はこれを「怨んで納める税金」という意味で怨納銭と呼んだ。ソウルの都城門の出入税をはじめ、あらゆる名目の雑税も加わった。それでも財政問題が解決しないとなると、大院君は実質価値が名目価値の20分の1となる当百銭を鋳造し、強制的に流通させ、貨幣価値の下落による深刻なインフレが生じた。紆余曲折の末、1868年8月19日に景福宮が再建され、高宗をはじめとする王室が昌徳宮から移ってきたが、今日の概念では、執務室と官邸の移転だった。
景福宮の再建で権力を掌握した大院君は、国際情勢の変化を無視したまま、鎖国政策を強圧的に推進し、権力の妨害になる人々を徹底的に弾圧し、独裁に乗りだした。大院君と高宗の妻の明成皇后が権力闘争を行うすきを利用し、外国勢力が交互に朝鮮に介入した。キム・ジョンハク教授は、朝鮮王朝末期の混乱の時期を過ごした人々は、大院君について「崩れた社会秩序を復旧し、生存の最小限の条件を守ってくれる強力な権力者の到来を望む切迫した願い」を持っていたが、結局それは「偶像に向かう盲目的な願い、あるいは、代案が不在の状況での避けられない選択にすぎなかった」と書いた。
約150年が経過した後、国際秩序は再び危うくなり、新型コロナや不平等による国民の生活苦も非常に厳しい。世論の懸念を無視し、速戦即決式で執務室の移転を押し通す尹錫悦(ユン・ソクヨル)次期大統領の「帝王的なコミュニケーション不足」は、政治の時計を逆に戻すかのようだ。「強力な権力者が守ってくれるはずだという盲目的な願い」ではなく、民主的制度や政界の反省、代案を作りだそうとする市民各自の努力が、退行ではなく希望を作りだすことになるだろう。
パク・ミンヒ|論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )