2021年4月にロイターがドローンで撮影したインドの火葬場の様子は、誰が見てもまるで地獄の扉が開いたようだった。その1枚のイメージは強烈だった。あらゆるメディアがインドのコロナ第2波を報道しはじめた。すべての造語は「地獄」という2文字に集約された。
韓国のメディアから連絡があった。「インドにいるのか?」「インドに滞在する韓国人でインタビューできる人がいたら繋げてほしい」。聞いて回った末に、インドで勤務するある大学教授に繋げた。私もその人も、確実に司会者がインドを「地獄」にしたがるはずだが、それよりもなぜインドでこうしたことが再び発生したのかに焦点を当てようということで意見が一致した。
前もって受け取った台本には「地獄」という単語が6回も出ていた。インドは絶対に地獄でなければならなかった。そうすれば記事はビュー数が稼げるし、K防疫の完全無欠さを主張する読者たちがあらゆる掲示板やSNSに拡散してくれるはずだからだ。知人である大学教授は、不憫なほど「地獄」という言葉ばかりを聞きたがる司会者を絶えず避けて回った。インタビューが終わり、なぜメディアが悩みもしない「その国の真実」のために、我々がこのような努力をしなければならないのか、苦々しく思った。
数日後、インドの知人たちから連絡が殺到した。彼らは怒っていた。すでにいくつかのインドのメディアは、ロイターの報道形態を典型的な歪曲報道と規定していた。インド内で知韓派と呼ばれていた知人たちは、すでに韓国メディア、そしてSNSが彼らの国に吐いた数々の暴言をすべて知っていた。そうならざるを得ないのは、最近はユーチューブであれツイッターであれ、自動翻訳機能があるからだ。韓国語の使用人口は多くないとしても、それのもつ見えない壁などというものはもはや存在しない。
メディアはいつもSNSの片隅にある最もきつい言葉を見つけ出してはそれを記事にし、そこに住む人々が皆そう考えていると誤解し、その誤解はしばしば取り返しのつかないほど深まる。私はため息をついた。「今回は我々がインドに対して加害者になったのか?」
インド人たちの怒りは理解できるものだった。その時も今も、新型コロナウイルスの感染者と死者数の1位は世界一の大国である米国だ。人口100万人当たりの感染者数で比べると、米国の感染者は現在もインドの5.7倍で、死者は7倍だ。この比率は何回かの時期を除いて常に保たれてきたが、韓国メディアの誰も米国のコロナ状況に対して「地獄」という言葉をそのように気安く使ってはいない。インド人としては十分悔しがるに値する。彼らはこれを一種の人種差別だと理解していた。彼らの指摘に反論する言葉が私にはまだ見出せない。
原因はロイターの例のイメージではないかと反問されるかもしれないが、インドは現代の多くの国が四角いコンクリートの建物の中で死のすべての過程を処理するのとは異なり、死をあえて隠さない文化を持っている。ロイターが撮影したあの場所は、大都市には比較的ありふれた屋外火葬場だった。死者が急増したことで、その屋外火葬場で通常よりも多くの遺体が火葬されていたのは事実だが、他国であれば、電気火葬場の煙は24時間絶えなかった、程度で終わっていたはずだ。インドの開放的な火葬文化を全く理解していないからこそ地獄に見えただけで、その基準にもとづけば、ガンジス河畔の聖地バラナシは3000年間生き地獄でなければならない。
私にできることは、インドのそのコロナ「地獄」が実はI(インド)防疫の宣伝にばかり没頭し、早期にコロナ克服を宣言し、それを政権の実績と言いくるめるためにすべての社会的距離措置(ソーシャル・ディスタンシング)を一瞬にして除去してしまったために発生した政治的災厄だ、ということを伝えることだけだった。もちろん、刺激的でなかったその記事の閲覧数は少なかった。面白いのは、その記事の見出しにもデスクが「地獄」という単語を入れたことだ。結局、私の言い訳は韓国でも、インドの知人に対しても、何の説明にも慰めにもなっていない。
チョン・ミョンユン|アジア歴史文化探求者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )