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[朴露子の韓国・内と外]「文明国追いつき」の終末

登録:2021-01-13 00:02 修正:2021-01-13 09:51
究極の問題は、そもそも韓国の支配層によって選択され、今日まで一度も本質的には修正されたことのない追いつき式開発主義の経路と言えるだろう。社会的正義や、弱者の人権のためのどんな動きも容易に犯罪視しうる超強硬な反共規律社会の雰囲気の中で、「開発」はほぼ唯一神の場所を占めるに至った。
イラストレーション=キム・デジュン//ハンギョレ新聞社

 世界体制の(準)周辺部後発国家の避けられない共同運命なのか、私はソ連で育ちながら「米国に追いつかなければならない」という話を頻繁に聞いた。鉄鋼生産のような戦略産業の生産量において、米国という“最高先進国”に追いつかなければならないということは、スターリン時代以来の(実は“共産主義社会建設”に代わる)国家の主要目標であった。実際、1978年になって約30年にわたる刻苦の努力の末に、ソ連の核弾頭数は米国の核弾頭数をついに追い越した。ただ、この“追い越し”の達成に過度に没入した結果、軽工業の発達にはほとんど資源を配分する余裕がなかったソ連体制は、その後10年余りしかもたなかった。中国でも1950年代末からソ連と米国を抜いて“世界1位”になることが、“社会主義”を看板に掲げた左派開発主義的体制としての目標であった。中国が実際にロシアを経済的に追い越してからすでに15年が過ぎ、名目国内総生産が米国を追い越すと見られる2028年までもういくらも残っていない。ところが、大気汚染により毎年寿命をまっとうできずに早く死ぬことになる約100万人の中国人にとって、はたして「世界最強国家になる」ということはどんな慰労になり得るだろうか。

 ロシアや中国とほぼ同様に、韓国でも永らく“文明国追いつき”は不変の社会イデオロギーであった。“追いつき”の成果を最も明らかに見せるものが、1人当り国民所得の数字であった。1994年、この数字が1万ドルに到達し、遠からず外国為替危機という史上最悪の経済大乱を控えていた韓国のマスコミは、時ならぬ祝賀の宴が大々的に張られていた。2018年には韓国の1人当り国民所得はついに3万ドルも超えた。今はどうだろうか?もし名目金額でなく購買力比例(PPP)の1人当り国内総生産で言えば、国際通貨基金(IMF)の統計によると韓国の数字(4万4292ドル)はすでに英国(4万4288ドル)や、かつての植民本国だった日本(4万1637ドル)までも追い越した状態だ。そのように見れば、韓国はすでに俗称“先進国”の一つだ。経済統計ばかりではない。今回のコロナ事態で確認された韓国、台湾、シンガポールの行政力や保健医療体系は、欧米圏を跳び越えるほどだ。しかしどういうわけか、“先進国への参入”のような話が沸きかえった1994年とは違い、ナイーブな祝賀ムードは今は別に感じられない。

 数字次元の追いつきと追い越し、そして世界最高の技術が「すべて」ではないということを、この25年余りの間に骨に凍みるほど実感してきたためだ。「ヘル」(地獄)とよく表現される大韓民国での暮らしの実状は、たいてい新自由主義、すなわち制約を受けない資本の横暴の問題として理解されたりする。それはもちろん誤った話ではない。ところが、はたして資本だけが横暴の主体だろうか? かつての官尊民卑の慣行は全般的に良くなったとしても、依然として検察のような、起訴権を独占する最強の公務員組織は、いまだに各種の官製“スパイ”ねつ造に参加したという事実を自ら認め、反省の声を上げたことがない。司法システムの強者であるだけに、その地位に最後まで固執して、司法の民主化に徹底的に反対する。しかしこの社会の他の強者は、どの程度違うだろうか。さらには、一つの社会的階層として資本の搾取対象になる労働者の間でも、強者が弱者を保護膜として利用し、圧迫する姿がたびたび見られる。韓国の非正規労働者の労組加入率は、世界のどこにも前例がないたったの0.7%だ。10年前までは約3%だったが、今はこのように100人の非正規職のうちわずか1人しか労働組合員がいない。いろいろな原因があるが、そのうちの一つは、半数を超える正規職労組が非正規職の加入を源泉封鎖しているためでもある。このように非正規職が正規職と共に労組活動も一緒にできない国は、韓国と日本以外にどこにもない。

 経済指標を見れば、すでにかつての植民本国である日本だけでなく、かつての世界覇権国家である英国まで追い越した“先進国”の大韓民国で、なぜ強者と弱者の間のほとんどすべての社会的関係に、無条件の服従要求と心理的暴力、横暴がつきまとうのだろうか。経済指標は高止まりをしているが、なぜ多数が“からだ”で実感する暮らしは“地獄”のような状況なのであろうか。究極の問題は、そもそも韓国の支配層によって選択され、今日まで一度も本質的には修正されたことのない追いつき式開発主義の経路と言えるだろう。社会的正義や、弱者の人権のためのどんな動きも容易に犯罪視しうる超強硬な反共規律社会の雰囲気の中で、「開発」はほぼ唯一神の場所を占めるに至った。輸出量、国内総生産、1人当り国民所得のような数字は、開発の神によって韓国国民が選ばれ、開発の“選民”になったことを立証する類似宗教的な象徴までになった。“開発教”の司祭が軍人出身であるだけに、“開発教”の礼拝堂になった会社もやはり兵営化され、ひいては社会全体が命令と暴言が乱舞する一つの大きな兵営のようになってしまった。1990年代に軍人出身の“開発教”司祭は民間人に交替させられたが、この似非宗教の教理は本質的には変わっていない。相変らず“指標”に現れる結果を作り出すために、人権保護のような手続きを省略してもかまわないといった思考が支配的だ。ただでさえ毎日が戦争のような職場の日常は、新自由主義の導入で完全に戦場になった。軍人と民間人が違わないこの戦場に何の人権があるだろうか?

 だが、“先進国”に追いつこうとあくせくした時期はもう終わった。韓国が経済的“先進国”になり、“先進圏”は全般的に成長が鈍化する時期に入ったためだ。今や問題は、入社以来会社員の83%が激務と過労、上司の暴言などで健康不安を訴えるこの“ヘル”のような社会を、人が生きられ子供を産み育てられるところにすることだ。偉大な歴史社会学者、ノルベルト・エリアス(1897~1990)が語った「文明化の過程」の中心には、強弱が交錯する社会関係の広義の非暴力化があった。韓国社会を非暴力化するために私たちに必要なことは、社会、特に職場の脱軍事化と社会全般の平等化、社会的関係の対等化が必要だ。大学平準化を通じた学閥カースト制度の打破が必要であり、労働者の経営参加を通じた企業の民主化が必要だ。1人当り国民所得がたとえ10万ドルになろうとも、市民的平等が欠如した、権力者・強者本位の暴力的社会は幸せなはずがない。

//ハンギョレ新聞社
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) |ノルウェー、オスロ国立大学教授・韓国学 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/978437.html韓国語原文入力:2021-01-12 18:50
訳J.S

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