11月の米国大統領選挙でジョー・バイデン前副大統領が当選し、民主主義を愛する世界中の多くの人々は安堵しているだろう。それにしても、ドナルド・トランプ大統領の引き際の悪さは異様というか無様である。しかも、トランプ氏を応援する市民が米国のみならず日本にもかなり存在することを見ると、民主主義のルールを共有することが難しくなっていることを感じる。
敗北や誤りを素直に認めることができるかどうかは、人間の成熟度を測る物差しとなる。私自身にも記憶があるが、子どものころはスポーツで負けることがくやしくて仕方なく、自分の失敗を他人に指摘されることが嫌でたまらなかった。人間が大人になるということは、負けや失敗を直視し、次にどうするかを考えることができるようになるということだ。
それは、特に政治家に必要とされる資質である。権力に挑戦する政治家は負けることもある。日本の偉大な野球選手、監督だった野村克也氏の名言に「負けに不思議の負けなし」という言葉がある。敗北には必ず自分の側の原因があるという教えである。自分の至らなさに気づける人物は、次のチャンスを捉えて立派な政治家になる。
また、権力者はしばしば間違いを犯す。自分で間違いを発見し、自己修正できる政治家は優秀である。権力にしがみつく政治家は間違いを認めたがらない。だからこそ、民主主義とは間違いを犯した権力者を追放する仕組みということもできる。
この十年ほど、先進国で民主主義が変調をきたすようになった。行政府のトップへの権力集中が進み、司法の独立、報道や表現、学問の自由が脅かされるという現象が広がり、特に米国や日本では顕著である。その理由の一つに、敗北や失敗を認めることを嫌がる幼稚な人物が権力の座にのぼったことがあげられる。安倍晋三前首相はトランプとの親密さを誇っていたが、二人は権力を握った幼稚な人物という点で同類であった。
その種の権力者は、独立した組織や個人を嫌う。憲法では、裁判所の独立が保障され、報道機関や学者、作家に表現の自由が保障されている。権力を取るためなら嘘や捏造を平気で繰り出し、権力を獲得すれば自分や親しい者の利益のためにそれを平気で濫用するような人物が権力者になった時には、報道機関や学者が憲法上の自由を駆使して、権力の行き過ぎを批判しなければならない。だからこそ、自分は正しく全能だと信じる権力者は、それらの独立した組織や個人を攻撃する。日本のことわざに「泣く子と地頭(地方の役人)には勝てぬ」という言葉がある。言葉が通じない幼児と横暴な権力者には理屈が通じないのであきらめるしかないという意味である。21世紀の日本や米国では、泣く子がそのまま権力者になった。批判する側は論理で権力の誤りを解明、批判するのだが、そもそも言葉を受け付けないから何を言っても、権力者は悪びれず、開き直るばかりである。
米国では、国民が選挙でようやくトランプを追放し、民主政治の劣化に歯止めがかかった。日本はどうだろう。1年前から、安倍前首相が地元の支持者を集めてホテルで行ったパーティについて、安倍氏の側は一切の費用負担をしていないという説明の信憑性をめぐって議論が続いてきた(支援者に飲食をさせれば選挙法違反になる可能性があり、その収支を報告書に記載しないのは政治資金規正法違反となる)。最近、検察の捜査で安倍氏の政治団体が費用の一部を支払っていたことが明らかになった。つまり、安倍氏は国会と国民に嘘をついてきたわけである。今のところ安倍氏は秘書が連絡なしにすべてを取り仕切ったと説明している。これは子どもっぽい言い訳である。日本国民が、幼稚な権力者のわがままも仕方ないとあきらめるのか、政治に道義と常識を取り戻す意欲を持っているかどうかが問われている。
山口二郎|法政大学法学科教授