チュ・ミエ法務部長官を批判する現役検事たちのネット上での「コメントリレー」が熱い論争の的になっている。様々なメディアに報道された検事たちの書き込みを見ているうちに、一つ気になることがあった。全体の検事数の15%近い300件以上のコメントが寄せられたというが、「長官批判」の千編一律から外れた内容はなぜこれほど目立たないだろうか。
最高検察庁のイム・ウンジョン監察政策研究官がかつて、李明博(イ・ミョンバク)大統領に対する嫌疑なしの処分や、性的暴行動画でキム・ハグィ元法務部次官の顔が確認されたにもかかわらず目をつぶったた捜査などを取り上げ、「検察の悪業があまりにも多い。自省が必要だ」という書き込みを検察内部ネットワークに掲載した。しかし「論点ずらし」などといった批判的なコメントが相次いで寄せられたという。検察の触手は、なぜいつも組織の外に向かって伸びているのだろうか。
まず経緯を振り返ってみよう。発端は先月28日、済州地検のイ・ファヌ検事が検察内部ネットワークに「検察改革は失敗した」という文を載せたことだった。イ検事は「その目的と意図をあらわにして、人事権、指揮権、監察権が乱発されている」とし、チュ長官を批判した。翌日、チュ長官はフェイスブックに「このようにカミングアウトしてくださるなら、解決策は(検察)改革しかありません」と書き込んだ。チュ長官は、イ検事が同僚検事への脅迫罪で逮捕された被疑者に対し、過酷な捜査を行ったという疑惑を提起した記事のリンクも一緒に掲載した。すると、今度は春川地検のチェ・ジェマン検事が「長官のSNS掲示文について」という書き込みを内部ネットワークに載せた。そしてこの書き込みに「私もカミングアウトする」というコメントが300件近く寄せられたという。
チュ長官の行動は適切ではなかった。長官が一般の検事をピンポイントで攻撃するような印象を与えたのだから、軽率だと言わざるを得ない。もちろん「検察事務の最高監督者」として、疑惑が持ち上がっている検事が言った発言の意味を問いただすことは必要だったのかもしれない。しかし、慎重かつ精巧に、また公式的に取り上げるべきだった。
さらに後味が悪いのは、検事たちのコメントに込められた“集団意志”だ。番号をつけて次から次へと寄せられている検事たちのコメントからは、チャンス到来と言わんばかりの意気揚々とした様子が伺える。「独断、抑圧と恐怖は改革ではない」、「権力者の意思に反対する意見を述べるやいなや、公権力と世論という最も強力な権力で弾圧するというのがこの事件の本質」、「内部構成員が自由に意見を開陳できるようにすることも民主主義だ」。検事たちのコメントは、検察改革の抑圧的な性格と手続き的な不備を攻撃している。問題は、「だから、今チュ長官が進めている検察改革は改革ではない」という論理構造だ。論理の飛躍を言わざる得ない。
検事たちのコメントは、改革対象になった権力機関の構成員の典型的な態度を示している。「改革に真っ向から反対はしない。ただし、その過程で発生する問題を浮き彫りにする」。過程の一方性と強圧性に対する既得権者の強調と批判は、改革そのものに対する否定と抵抗に帰結しやすい。過程と方法論の問題を取り上げているようだが、その心の奥底には「だからこそ、この改革は改革と認められない」という決然とした意志がある場合が多い。「公権力と世論という最も強力な権力で弾圧」といったコメントは、尻尾を捕まえて胴体を揺さぶろうという欲望のにじむ深層心理をよく表している。泣きたい検事たちの頬をまさに叩いてしまったことが、チュ長官の最大の失策だといえる。
もちろん、検事たちのコメントすべてが方法論の欠陥にこじつけて改革の正当性を根本的に否定しようとする、強力な同一体的な意志の表れだとは信じたくない。目的と同じくらい過程も正当でなければならないという信条を込めたコメントもないわけではない。しかし、このような内容が今この瞬間にも引き続き寄せられている検事たちのコメントの中で、最も少ない部類に属するのは明らかだ。検察内部に向かって伸びる触手は、ティラノサウルスの骨を見つけるくらい難しい。キム・ハグィのケースまでとりあげることもない。「検察総長は法務部長官の部下ではない」というユン・ソクヨル総長の荒っぽい発言や政治的な動きの問題点について、指摘する気概を見せた検事はほとんどいない。2003年、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領と検事との対話で、検事たちは「検察人事は検察に任せてくれ」という発言を執拗に繰り返した。「いかなる外部統制も受けたくない」という検事たちの欲望と世界観は変わっていない。だからこそ、検察を天空の城として残してはならない。