ソウル市のパク・ウォンスン市長が自ら命を絶ってから、故人に対する哀悼と批判が交錯し、社会的葛藤にまで飛び火している。強制わいせつ行為でパク市長を告発した人に対する2次加害と故人に対する冒涜も無分別に行われている。悲しい現実だ。
2次加害行為は厳重に責任を問わなければならない。身元を公開したり、陰謀論やフェイクニュースを広めたり、誹謗や名誉毀損につながるすべての行為がこれに当たる。警察も厳しい措置を取る方針を示した。一部で「女性を秘書として雇うのはやめよう」という極端な主張が広がっているのも、責任を告訴人に転嫁する歪んだ見方だ。一方、葬儀場や死亡場所の近くでライブ放送までして、死者を嘲弄する非人間的な動きもあった。パク市長の死がもたらした衝撃ともどかしさが複雑な反応として表れているが、少なくとも法と常識に反する極端な言動はあってはならない。
このような時ほど葛藤を解消する政治の役割が切実に求められるが、一部の軽率な言動には懸念を抱かざるを得ない。共に民主党のイ・ヘチャン代表が強制わいせつ行為疑惑に対する党の対応を問う記者に暴言を吐いたことや、未来統合党のペ・ヒョンジン院内スポークスパーソンがパク市長の息子の兵役疑惑を取り上げたことは不適切だ。
故人を偲ぶのも、非難するのも、それぞれの経験と価値に基づいた行動だ。ソウル市庁前の弔問の行列には、障害者活動補助人やマウル(町)共同体活動家など、パク市長の政策に直接・間接的な影響を受けた人が少なくなかったという。市民運動とソウル市政を通じてパク市長が実現してきた価値と理想に共感し、彼を追悼する人々が悪意を持っているはずがない。被害を訴える女性に共感し、真相究明と再発防止を主張する人々も同じだ。このような事態が発生するまでの構造的問題を見直すのは、人権と性平等を擁護してきたパク市長の精神とも合致する。問題は、相反しない二つの態度を二分法的な選択を迫るものとしてとらえる傾向だ。追悼を告訴人に対する加害に結びつけ、告訴人との連帯を追悼の否定に結びつける単純な論理が、互いを傷つけている。百害あって一利なしだ
このような混乱は、突然の事態で考えと感情を整える余裕がなかったせいもあろう。今は厳粛に葬儀を行ってから、パク市長の生と死が残した課題を冷静に解決していかなければならない。功績は受け継ぎ、過ちを正す二つの側面で韓国社会を一歩前進させることが、社会革新家でありひとりの人間であった「パク・ウォンスン」を正しく記憶する方法だ。