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[寄稿]日本における画一化の過剰

登録:2018-09-02 15:23 修正:2018-09-02 20:15
山口二郎・法政大学法学科教授//ハンギョレ新聞社

 現在、日本政治における最大の関心事は、9月20日に行われる自民党総裁選挙である。日本のような議院内閣制の場合、多数党の党首は内閣総理大臣となるので、この選挙は日本の最高指導者を決めるという意味を持つ。現職の安倍晋三総裁は、2012年末に第2次政権を発足させて以来、国政選挙で勝利を重ねてきた。自民党は党総裁の任期上限の規定を改正し、3選を可能にした。安倍氏は3選を目指して今回も立候補し、自民党の国会議員の大半の支持を得、勝利は確実といわれている。

 昔の自民党では、総理・総裁の座をめぐって現職総裁に対して有力な議員が挑戦するという選挙がたびたび繰り広げられた。総裁選が派閥による金権政治を助長したという反省の上に、1990年代に小選挙区制や政党交付金制度の導入が行われた。それから20年余りたって、実際に政党の中では集権化が進み、総理・総裁に歯向かう反主流派は消滅したようである。今回石破茂元幹事長が立候補を表明しているが、国会議員の支持者はごくわずかである。自民党の変わりようには、今昔の感がある。

 こうした政党の集権化、総理・総裁の権力の強化は、90年代の制度改革が目指した帰結ということもできる。しかし、それは形だけの成果である。強力になったリーダーが、その力に見合うべき責任感、道義心を持っていれば、民意との応答関係をもつ有能なリーダーという理想形となったのだろう。しかし、安倍首相の場合、力の大きさと国民に対する責任感との間に巨大な落差がある。そのことは、国会審議における誠実な討論の拒絶、森友・加計疑惑に関する説明責任の不履行などで明らかである。

 強いリーダーには、強い対抗勢力がなければ、民主政治は容易に多数の専制に堕してしまう。安倍独走を許している原因は、自民党の議員が「寄らば大樹の陰」という同調志向を強めていることだけではない。政治制度を改革する中で、権力に屈しない独立した市民・主権者を作り出すこと、そうした市民が活発に発言、行動しやすいような社会的環境を整備することが全く見落とされてきたことを今になって痛感する。

 安倍政権の下では、公教育において道徳や愛国心が強調され、高校では政治経済に代わって公共という科目が新設された。愛国の名のもとに自国を批判することが禁圧され、公共の名のもとに現存の秩序に無条件で従順となることを教えようとするならば、日本社会の画一化はさらに進むことになるだろう。学校教育の中で公共心とは何かを考えること自体は、必要だろう。たとえば、大統領の権力私物化に抗議して数十万の韓国の市民が街頭に出て抗議をしたことは、主権者としての公共心の発露だと私は考える。あるいは、アメリカで、学校での銃乱射事件に抗議して高校生が銃規制を求めて大規模なデモを行うことも、よりよい社会を作り出そうという公共精神の発露である。しかし、日本の学校で先生がこのような解説をし、生徒に積極的な行動の必要性を説けば、その先生は校長や教育委員会に譴責され、偏向教師というレッテルを貼られるだろう。

 一般市民の意識改革が必要であることは言うまでもないが、精神論になっては効果がない。まずは、マスメディア、学者・評論家など、権力をチェックすることを仕事の一部としている人々が、寄らば大樹の陰という態度を捨てて、独立して発言することが必要である。折しも、安倍首相は、総裁選挙の中で憲法改正への積極姿勢を明言している。独立した言論人、言論機関が存在しなければ、安倍長期政権は日本の民主政治の崩壊の引き金を引くことになるかもしれない。

山口二郎・法政大学法学科教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力: 2018-09-02 17:35

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/860303.html

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