ナポレオン・ボナパルトが島流しされたエルバ島を抜け出して首都に入城するまで、パリのある新聞が見せた豹変ぶりは永遠に記憶される。1815年3月9日、脱出の便りを伝えたヘッドラインは「食人ワニが巣窟を抜け出す」だった。続いて「食人鬼がジュアンに到着」した後「怪物がグルノーブルで宿泊」した。パリ到着の5日前には「ボナパルトが首都から60リーグ(約200キロメートル)離れたところまできた」という“客観的”記事が出た。それから3日後「フォンテーヌブローまで来た皇帝」は、ついに「忠誠にあふれる臣民の歓呼を受ける陛下」としてパリに足を踏んだ。
朝米首脳会談の前後で、北朝鮮と金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長に対する日本の指導者の態度変化もめまいがする。日本人たちを拉致し責任を取らない非人道的な国の首領は、いつのまにか「指導力ある」首脳として「新たな出発」のパートナーになった。
同時に蛭のような外交が繰り広げられた。河野太郎外相は、朝米交渉に自国の影響を入れて動きを探ろうと、マイク・ポンペオ米国務長官がいる所ならば千里の道も駆け付けた。ヨルダンに、米国に、韓国に。安倍晋三首相は、朝米首脳会談をドナルド・トランプ大統領が受諾するや、米国を訪問して朝米首脳会談の直前に再びホワイトハウスを訪ねた。その後すぐカナダで開かれた主要7カ国(G7)首脳会議で撮られた写真の中の彼は、欧州の指導者たちに対抗する米国大統領の参謀のように見えた。日本の首相と外相の東奔西走は、熾烈でわびしいオデッセイと言えるほどだ。
恥を知らないといえば、日本の現代史にもナポレオンのパリ帰還に劣らず劇的な場面がある。1936年、軍事費縮小に怒りが頂点に達した青年将校が、大蔵大臣の殺害に続き首相まで殺そうと2・26事件を起こした。陸軍省は、自分たちが国家全体を完全に掌握する機会と見た。そこで反乱軍を「決起部隊」と呼んで激励した。だが、裕仁天皇と世論が冷たく反応すると、2月28日には「騒擾部隊」と言った。29日からは「反乱軍」と名指しして鎮圧に出た。陸軍指揮部の初期の声援に歓呼した反乱軍は、当惑と背信を抱いて刑場と監獄に向かった。ナポレオンのエルバ島脱出と日本の青年将校の蜂起日は同じだ。ナポレオンは百日天下を享受したが、日本の反乱軍は三日天下で終わった。
この頃の日本の指導者の態度には意地もないのかと思うが、再確認して見れば、彼らの態度と政治文化には特別な遺伝子はないと感じる。実利の前で名分は容赦なくけり飛ばし、大勢が傾いたと判断すれば躊躇なく立場を変えて、味方と敵をいつでもひっくり返すということだ。
日本の指導者は本当に一貫性がないのだろうか?本質は完全に反対のようだ。彼らの言動は、利益と目標達成のための見せかけ(虚飾)に過ぎない。一時的言動に対する道徳論的評価は意味がなく、究極的結果のみが唯一の尺度だ。日本の市民は、体面も何もない安倍首相の労苦に支持率で報いている。国家理性の狡猾さは、どんな姑息な手段を使おうが、結果が良ければそれでよいとする小人輩的行動に免罪符を与える。
19世紀中盤に米国海軍の黒船にぶるぶる震え開港を強要された国は、数十年後に西欧の帝国主義と肩を並べ、朝鮮を飲み込み中国を半植民地にした。アジアを脱して西欧世界に入る(脱亜入欧)として、後も見ずに疾走した結果だ。必要ならば、自分たちのルーツまで否定した。
時に舌を打ちはしても常に真剣に注視すべき国だ。市場町のごろつきの股の間を這ってくぐった韓信のように、佗びしい日々の末に何か期待するものがあるのかもしれないと。