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[寄稿]高慢と偏見

登録:2016-10-25 22:54 修正:2016-10-30 07:47

 私の記憶は1964年の東京オリンピックのあたりから始まっている。50年以上日本に生きてきたのだが、今ほど嫌な時代はなかったと思う。7月に神奈川県相模原市の障がい者施設で、依然その施設で働いていた男による大量殺人事件が起こった。犯人は障がい者は生きる価値がないと考え殺人に及んだ。横浜市内の病院では、点滴に界面活性剤が注入され、その点滴を受けた患者が亡くなった。これも入院中の高齢者を狙った病院内部の関係者による殺人事件と思われ、警察が捜査中である。これらの事件に象徴されるように、人間の生命や個人の尊厳を無視する風潮がいやな時代の根源にある。

 昔も差別やいじめはあった。しかし、今の日本ではテレビなどの公共の空間で、そして公職にあるものが平然と他者を冒とく、蔑視する発言をすることは、最近の現象である。政権を擁護する発言を繰り返してきたテレビの司会者が、腎臓病で人工透析を受けている患者に対して、病気は自分のせいでなったのだから費用は公的保険ではなく自費で負担すべき、払えない病人は殺してもよいと発言し、厳しい非難を浴びた。さすがに彼は出演していた番組から外されたが、自分の発言が間違ったとは思っていない。沖縄県東村では、米軍の施設建設に反対する住民の抗議行動が続いているが、警備の警察官が地元の人に「土人」という言葉を投げつけた。権力者の太鼓持ちや権力の末端にいる公務員が率先して差別やいじめを行っている。

 差別は外国人にも向けられている。あるすし屋が韓国人の客にワサビを大量に入れるという嫌がらせをした。大阪では韓国人旅行者に対する暴行事件も起きた。自分が健康な日本人であること以外、自慢できることがない、その意味で弱い人々が、高齢者、病者、外国人を差別し、いじめてうっぷんを晴らしている。

 問題は、こんな情けない社会の現状に対して、政治やマスメディアの指導者が危機感を持っていないことである。例えば、今国会では憲法論議が始まっていて、自民党憲法草案において「家族は互いに助け合わなければならない」という条文の意味について議論がある。自民党の政治家は憲法が国民に家族は仲良くせよと命じたらみんなその通りにし、社会の安寧も保たれると考えているようである。精神論で日本社会の劣化を止められるならば、世話はない。貧困と格差の拡大、長時間労働による家庭生活や社会生活の破壊が社会の後輩の根本的な原因である。憲法論議をするのであれば、家族仲良くという建前よりももっと基本的な建前、人間の生命は何よりも尊いとか、個人の尊厳を冒とくしてはならないといった文明社会のルールをあらゆる機会に強調し、国民に訴えるのが政治家たるものの仕事であろう。

山口二郎・法政大学法学科教授 //ハンギョレ新聞社

 孟子の言葉にあるように、恒産なくして恒心なしである。生活が安定して、初めて人間は他者に対する思いやりや敬意を持つことができる。障碍者施設や病院で衝撃的な殺人事件が起こるのは、そこで働いている人々の待遇が劣悪であることも一因となっていると思われる。人間は何らかのプライドを持たなければ生きていけないが、格差貧困社会の中で、自分が身体面で健康な日本人であること以外に誇れるものがないような人が、どこかにはけ口を求めることは、個人のゆがみではなく、社会の病理である。政治の役割は、憲法を改正して国民に道徳の説教をすることではない。人間が1日8時間働けば、最低限の生活が営めるような雇用や社会の仕組みを再建することこそ、政治の任務である。ユダヤ人大量虐殺を容認した1930年代のドイツと現在の日本の距離は縮まっているように思える。

山口二郎・法政大学法学科教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2016-10-23 17:17

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/766897.html 原文:

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/766897.html

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