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[コラム] サイバー検閲と「辛い唐辛子」

登録:2014-10-17 21:32 修正:2014-10-18 06:07
キム・フンスク詩人

 警察と検察がソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のカカオトークとモバイル・コミュニティ サービスの「バンド」を押収捜索し、サイバー対話を“リアルタイムでモニタリング”するなんていうから、自分だってサイバー査察の対象になるのではと心配している人がたくさんいます。

 何日か前に新政治民主連合のウ・ユングン院内代表が、サイバー検閲は1980年代の新軍部の報道指針を凌駕する“公安統治”だと非難しましたが、1980年代でも今日でも、“検閲”とは市民を信頼しない権力者が市民を怖気づかせ、自分の不安を追い払うために取る措置です。

 出版されて77年経っても相変らず中国を勉強する際の必読書に選ばれる『中国の赤い星』に「彼は私が書いた文の内容や撮影した写真に対して全く検閲しなかった」という一節があります。 私がこの一節を忘れられないのは、1980年代初めに新聞記者として新軍部の検閲を受けた辛い記憶のためです。 ここで言う“彼”とは、後の中国の初代国家主席になった毛沢東です。

 国民党の軍隊を避けて1934年10月から一年間の“大長征”に出た毛は、1936年になっても相変らずゲリラ軍から抜け出せない赤軍の指導者として、国民党政府が掲げた莫大な金額の懸賞金を首にかけ、この本の著者エドガー・スノーに会いました。 誰が見ても不安な状況だったにもかかわらず、毛は「放漫に他の人々とうろうろ」歩き回っていたといいます。

 毛が“放漫に”出歩き、スノーの文を検閲しなかった理由は単純です。自分が率いる赤軍に愛され尊敬されていたためです。彼は兵士たちと同じように生活し、彼らが素足でいる時は自身も靴を履かなかったし、集会や劇場ではいつも人々の間ならどこでも間に入って座っていたそうです。

 権力者が市民と同じように生活して、寝てもさめても市民の福利を考えているのだから、市民に愛されるはずです。そうではなく愛されない権力者が“検閲”で威嚇してくる時、市民は何をしなければならないでしょうか? 恐怖に震えて“サイバー亡命”をすべきでしょうか?

 2011年の地震と津波で放射能に汚染された日本の福島の屑鉄を輸入する国、“親しい”アメリカという国から“有事の際”には韓半島で核兵器を使うという話を聞いても、じっとしている国、22兆ウォン(約2兆2000億円)をかけて水資源を汚染させた人々が贅沢三昧している国、このような国の市民が、なぜ“サイバー検閲”などを恐れなければならないでしょうか?

 恐れは暮らしを萎縮させます。 恐怖に震える人の一年は、自由人の一日より無価値です。 脅迫に順応する市民は、市民ではなく奴隷です。 誰が何を言おうと、言うべきことは言わなければなりません。

 怖くなってカカオトークや他のサービスを利用できなければ、スマートフォンを使う代わりに直接会って対話してください。 対話とは本来「互いに向かい合って座って話を交わすこと」で、スマートフォンがなければより一層意味ある対話が可能になるでしょう。

 ひょっとして政府が「セウォル号が殺した経済」を生かすためにそうしているのなら、考え直してみることを薦めます。 サイバー対話をリアルタイムでモニタリングするには、無数の要員を雇わなければならず、“不穏な”対話者を全員罰するには、検察、警察、裁判官、それに留置場と刑務所を増やさなければなりませんが、こんな形の“経済再生”は“国を殺すこと”ですから。

 毛沢東は「辛い唐辛子」という民謡が好きだったそうです。 歌の主人公である唐辛子は、食べられることを待って生きている野菜の毎日を嫌悪して、結局は野菜の蜂起を導きます。 不当な措置に順応する人は、食べられることを待って生きている野菜と違いません。 権力を持てなかった人は“小市民”。 今こそ小市民が“小さな唐辛子”になり、小さな唐辛子の“辛味”を見せる時ではないでしょうか?

キム・フンスク詩人 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/660276.html 韓国語原文入力:2014/10/17 18:33
訳J.S(1719字)

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