キム・ヨンハ前国民年金財政推計委員長が「65才になって基礎年金を受取るようになるならば、人生間違って生きたのだ」と言ったという。 国民年金を与えるのが惜しくて言ったことなのか、それとも、このような事情にある老人たちの人生をよく知らずに言ったことなのかは分からない。 しかもこの話をされたという前国民年金財政推計委員長という方も50才は越えた方で、自身もベビーブーマーに属する方だ。
キム前委員長が言ったことは、当たっている部分もある。 耳には快くないけれども、彼の言うとおり、確かに間違って生きた人生かも知れない。 しかしその「生き間違えた」という基準が何であるかによっては、逆にそのような発言をしたその方のほうががもっと生き間違えているかもしれない。
私は1964年から小学校教師として42年間勤めたので、私が担任をした子供たちは1953年生まれから1978年生まれまでだった。 ベビーブーマー全体とその近くのさらに広い時代の子供たちを受け持って見てきたわけだ。
初めて卒業させた68年度の卒業生は55年生まれで、ベビー ブームの初年に該当する子供たちだった。 当時は中学も入試を受けなければならなかったので、学校で200日間合宿しながら教室で寝て食べて、家には弁当を取りにちょっとだけ行ってくるという生活をした。 そんなに熱心に勉強したけれども、管内の中学の入学定員が多くなくて20%くらいしか中学に入学できなかった。 面内の無認可中学校である高等公民学校に進学した子供たちまで全部合わせても、約30%がやっと中学課程を学ぶことができた。その頃の農村の学校の場合、ほとんどが20%を越えられない状態だった。
農村地域の残りの70~80%の子供たちは国民学校を卒業した13才という幼い年齢で産業戦線、就職戦線に飛び込まなければならなかった。 当時は工場のようなものもあまりなかった時期なので、女の子たちは食母(シンモ)になったり、かつら工場や縫製工場で働き、男の子たちは工場の走り使いや店員になって一日14~15時間のきつい労働をしながらも、まともな給料ももらえない境遇で職場生活を始めた。 当時多くの工場や家庭では、幼いからと仕事を教えるという理由で食べさせてやるという条件で働かせることが多かった。 このような生活で何年も只で働かされた後、仕事に慣れてくれば若干の給料(小遣い程度の給料)をもらい始める。
こうして底辺から仕事を習い覚えて技術者になり、工場で重要な位置を占めるようになるまで20~30年もかかった。 彼らは十分な給料を受取ったこともなく、最近の人々の基準で見れば、よくもそのような勤労環境で働くことができたものだと思う程の悪条件に耐え抜いて働いた。そのような底辺の人生を生きてきた彼らの力と血と汗にまみれた努力により、我が国の産業は発展したし、その雀の涙ほどの給料で親を養い子供を学校に行かせて、ほとんど大学教育まで受けさせてきた彼らだ。教育を受けられず、そのことが恨(ハン)となった彼らは、自分の子供にだけはそんな人生を送らせたくないと、一層子供の教育に懸命になった。
そのように死にもの狂いで働いているうちに、もう年を取ったからと職場から追い出される身の上になってしまったが、自らの老後のために備えをしておくことはできなかったため、基礎年金でも受給されなければ暮らせない境遇となった。
さあ、この人たちに向かって「あなた方は人生を間違って生きてきた」と後ろ指を差さなければならないのか。 彼らの人生をどれほど分かって、彼らが間違って生きたと言えるのか。 今、老齢年金に依存しなければならない彼らは、金持ちになりたくなくて貧しいのでもなく、働かなくて貧しいのではいよいよないではないか。 おそらく、働いた量で見るならば、そんなことを言ったその方よりも数倍はもっと働いたかもしれない。
ただ、貧しい家に生まれて学校に行けなかったことがくびきになって、ずっと貧困を友として生きてきたのであり、貧困のくびきを抜け出そうと他の人たちよりもっと多くの努力もしてきた人々だ。 無為に歳月を送るどころか、目が回るほど忙しく懸命に走ってきた彼らだ。 そんな彼らが人生を間違って生きてきたとは。たとえ人生というマラソンで優勝の月桂冠を頭にすることは出来なかったとは言え、自身の能力を全て投じて最善を尽くしてきた彼らだ。
いったい誰が、あえて彼らに向かって、「人生を生き間違えた」と言って石を投げることができよう。 こうした言葉こそ、人格冒とくであり、人格殺人である。
キム・ソンテ老年ユニオン委員長・韓国児童文学会会長