子供竹馬の友が統一部から北韓訪問許可を通報されたのは、出発の前日の13日だった。 開城(ケソン)工業団地実務会談を控えて南北がへし合いの末に政府当局がようやく下した決定だった。 当局が対北支援民間団体の北韓訪問を承認するまで苦難の痕跡が歴然だった。 北韓訪問の目的は半月前に搬出許可がおりた南浦(ナムポ)地域の幼児と子供患者のための離乳食材料をモニタリングすることに限定されていた。 開城工業団地実務会談で合意できたという便りを平壌に到着した日の夜に北韓のテレビを通じて知った。
■ 空港で携帯電話 無事通過
慌しく出発した子供竹馬の友一行は、平壌(ピョンヤン)順安(スナン)空港で意外なことを体験し戸惑った。 空港税関職員が携帯電話をそのまま持って行けと言ったのだ。 それ以前は、一行の携帯電話を一ヶ所に集めて預け、出国する時に返してもらうのが慣例だった。 それは一時的保管ではなく事実上の押収だった。 外国人観光客はUSIMチップさえ入れれば本国と通話もできると話した。 もちろん網が異なるので私たちは通話は出来なかったが、写真を撮ったり、メモやゲームもできた。
唯一の北韓航空会社である高麗航空機内の画面では肩を露にした超ミニ姿の美女が楽器演奏に合わせて‘語れ 先軍の道’ ‘一気に’のような歌謡を熱唱していた。 彼女たちは私たちに見覚えのある韓服姿ではなく、スタイルを誇るように舞台衣装で装っていた。
■余裕のある平壌通り
平壌通りは予想したより余裕があるように見えた。 何年か前のように大きなふろしき包みを背負って、重そうに道行く住民たちは見当たらなかったし、代わりに日傘をさした女性が行き来していた。 バスもタクシーも頻繁に目についた。
白色と灰色だった平壌の建物と道路も一層多彩になっていた。 人民劇場、国立演劇劇場、総合便宜施設であるユギョン院など外壁が青いガラスでできた建物も、明るい色の新しく建てた円形アパートも多数目についた。 そのままソウルに持って行っても遜色ないほどのさわやかな現代的建物だった。
北側の民族和解協議会(民和協)が案内した平壌産院‘乳腺腫瘍研究所’も驚く程きれいな現代的病院施設だった。 6階建物に百床規模の乳癌治療研究センターであるこの研究所は、最新の医療設備を備えていた。 道の向かい側には3百床規模の中央児童病院が新築中だった。 ‘オモニ(お母さん)’治療センターと‘アイドゥル(子供たち)’病院は全て軍が投入され‘馬息嶺(マシンニョン)速度’で迅速に作っていると言う。
‘馬息嶺(マシンニョン)速度’といは、北江原道(プクカンウォンド)馬息嶺(マシンニョン)に‘兵士建設者’らが山を削ってスキー場を超高速で完成したことを、金正恩朝鮮労働党第1秘書が現地指導に出て祝賀したところから出てきた新造語だ。 「馬息嶺速度で疾風のように走ろう」というスローガンが張り出されるほどに北側の人の口癖になった表現だ。 平昌(ピョンチャン)冬季オリンピックを馬息嶺スキー場と連係させれば、錦上花を添えるという思いが頭をかすめた。
‘親人民’強調 金正恩 統治方針に
都心のあちこちに病院・最新式建物工事
ホテル・食堂には市民・観光客で‘賑わい’
金日成親子の遺言統治は以前のまま
■ ‘イルカ館’・遊園地に人波
光復節が公休日のためか、彼らの表現で言えば‘祖国解放日’に‘綾羅(ルンラ) コプトゥンオ館' 前は人波で混みあっていた。 コプトゥンオはイルカを指す言葉だ。 綾羅島(ルンラド)にあるコプトゥンオ館はイルカ ショーを観覧する新しく開場したところだ。 同じ日、金日成主席の生家に行く町角の '万景台(マンギョンデ)遊園地' にも子供たちの手をつないだ家族行列が列をなした。 遊具も塗装と整備を終えたと見られ、揺れる遊具のバイキングにも子供たちが群がっていた。
一行が投宿した大同江岸羊角島(ヤンガクド)ホテルには、朝は食堂に空席がないほど混みあったし、夜にはホテル前の駐車場は観光バスで埋め尽くされていた。 中国人観光客だけでなく家族一緒に来たヨーロッパやカナダ、米国人観光客が多かった。 ホテルから見下ろせる大同江(テドンガン)に浮かんでいた骨材採取船も休む間もなくガタガタと帰って行った。
これらのすべての変化が最近の経済指標、特に昨年の米収穫量が多少良くなったことに伴うものという評価もあって、執権以後‘親人民的’であることを強調しながら遊園地開発と観光事業に関心を傾ける新しい指導者の政策ドライブと関連していると説明したりもする。
■‘遺言統治’、‘懐かしさの政治’
一方では、通りのあちこちに指導者を称賛するスローガンと巨大な銅像と遺体を安置する記念宮殿が立派に整えられていた。 空港から平壌市内に入る町角に、金日成主席と金正日国防委員長の遺体が安置された '錦繻山(クムスサン)記念宮殿' がある。 私たちを案内する民和協参事がこの記念宮殿が‘錦繻山(クムスサン)太陽宮殿' に名称が変わったと伝えながら「金日成、金正日同志を太陽と敬って迎える意」と付け加えた。
通りのあちこちに貼り出された大きな赤い文字は以前と変わりなかった。 「金日成同志と金正日同志は永遠に私たちとともにいらっしゃる」、「先軍朝鮮の太陽 金正恩将軍万歳」のようなスローガンは、北韓体制の特性を遺憾なく見せていた。 万寿台に一人で立っていた金日成主席の巨大な銅像は、新しく作った金正日委員長の銅像と並んで立っていて世代交代を実感させる。
平壌通りが活気に満ちた都市に変貌していく中で‘遺言統治’、‘懐かしさの政治’はそのままに生きていた。
南側の後援で用意された子供病院
5年間 支援途絶えて医療設備は故障し
南北子供支援は時代の宿命
政治にともなう人道的交流の中断はなくさなければ
■ 5年ぶりの北韓訪問、医療装備 試薬・部品 欠乏
個人的には5年ぶりの北韓訪問だった。 朴槿恵(パク・クネ)政府になって初めて搬出許可を受けた小麦粉、粉ミルク、砂糖など140余tの離乳食材料はすでに南浦(ナムポ)の小児病院と南浦育児院に到着していた。
私たち一行は先ず病院と育児院の倉庫に積まれた支援物品を確認し、認証写真を撮った。 育児院の幼い子供たちは蒸し暑さの中でもきれいな服を着て私たち一行を熱烈に歓迎してくれた。 去る数年間、北韓訪問と対北人道的支援が非常に制限されたためか、民和協は竹馬の友一行を歓迎してくれ、私たちのどんな要求にも顔をしかめずに誠意を尽くして援助してくれた。 彼らは南北関係が凍りついた状況でも、北の子供たちのために医薬品などを送り民和協に持続的に連絡をした子供竹馬の友がとても有難いと繰り返しねぎらった。
子供竹馬の友は支援物資をモニタリングしながら暇を作ってはこの間私たちが支援してきた子供病院と子供栄養管理研究所などの事業場にも立ち寄った。 概して去る数年間にわたり支援が途切れ、試薬がなくなったり部品が供給されずに故障して使えなくなった医療設備が少なくなかった。 たとえばX線フィルムの現像液や自動血液検査装備の部品がなくなったり、胃腸内視鏡、患者観察システムが故障して使えなくなっているような状況だった。 一年にせめて1,2回でも行ってくれば、支障なく稼動していた筈の医療設備をまた新たに購入して送らなければならない状況になったことがとても残念だった。 医療設備の一つ一つが私たちの後援者たちの北の子供たちに対する愛情と誠意が込められたものなので、故障した医療機器を見る私たちの心情はみじめだった。
この間、子供竹馬の友は当局間の公式的なチャンネルが詰まるほど民間の交流・協力をより一層活性化させなければならないと主張してきた。 当局間の公式対話通路と民間の人道的支援事業のツートラックが相まってこそ、相互補完的な機能を通じて信頼を積み上げられるというのが私たちの持論だった。 政治的・軍事的状況によって民間人の交流・協力事業を中断するのは愚かなことという考えを拭えない。
■ 木製の扉・ベッドにも小児病院建設にやりがい
支援が中断されたのに竹馬の友が支援した子供病院は地方の下級病院と大学病院級からも重病の子供患者を依頼してくる程に位置づけを固めたように見えた。 たとえば平壌竹馬の友子供病院の場合、一日平均2百人余りの下痢と栄養失調の患者を診療することによって、栄養管理研究所としての地位を担っていると医者たちは自慢気に話した。
平壌医科大学竹馬の友小児病棟は地方の下級病院からも重病患者と稀少病の子供を送ってくるなど、年間4千人余りの患者を診療していると病院長は話した。 悪くすれば死亡したかも分らない1千人以上の子供を助けたことを自負していると彼は付け加えた。 病院の建物のまん中に穴が開き、豪雨が吹き込むせいで鉄板で塞いでいるが、夏はとても暑くて喚気施設が必要に見えた。 電力事情が安定せず変圧器を設置しても基板自体やモーターなどの核心部品が故障している場合が多数あった。 支援の中断で放置された輸液剤生産施設が入る空間は他の用途に使われていた。
今回小麦粉などを送った南浦小児病院は、仕上げ工事を終えられずに5年の歳月が流れた。 行ってみるとアルミニウム サッシのドア枠に木の扉が臨時に付けられていたし、ベッドも木で粗末に作ったベッドで、子供たちが横たわっていた。 一言で言って竹馬の友が支援してきた医療機関は支援中断という劣悪な環境でも使える資源を動員して自分たちで熱心に運用していると思われた。
■ 南北子供支援は私たちの時代の十字架
帰ってくる前日、歓送同席会食で子供竹馬の友理事長として私はこのように話した。
「私が初めて平壌を訪問したのは50代の後半でした。 今は頭が白い73才の老人になりました。 子供竹馬の友が創立して17年、歳月は速く流れるが、南北関係の進展はあまりに遅い」と切り出した。 「私は私達の子供たちがおとなになる20~30年後にも南と北が鉄条網で遮られ行き来できずに敵対的緊張の中で生きていくとは想像し難いといつも話してきました。 もうその歳月を50年後ぐらいに延ばさなければならないのでしょうか?」 そして付け加えた。 「夏に雨が降ったり、冬に大雪が降る日なら、北の子供たちはどのように過ごしているか、一時もその子供たちを忘れることはできませんでした。 北の子供たちは遠からず私達の子供たちと共に生きていくべき隣の友人であり兄弟であるからです。 南と北の子供たちを世話するのは私たちの時代の大人たちが担わなければならない、大変だからと下ろすことはできない十字架です。」
■子供病院 開院10周年、‘小さな音楽会’の夢
8月の日差しの下で行なわれた子供竹馬の友の平壌訪問が、人道主義的な交流・協力を再び活発にさせる契機になればという切実な願いを抱いて私たち一行は引き返して来た。 来年6月に平壌竹馬の友小児病院開院10周年を迎え、病院ホールでで南北の子供たちの美しく質素な‘小さな音楽会’が必ず開かれることを希望しながら・・・。